藤白(海南)から鹿ヶ瀬峠(広川)


 ここからは本格的な山道となり、今までの町中の狭い道と違い畑や山の中の狭い道を走らねばならないので脱輪に注意。
大まかな地図は、和歌山県作成の公式の”街道マップ”が分かりやすい

  和歌山の地図  http://kanko.wiwi.co.jp/walk/index.html

藤白王子〜山口王子   糸我王子〜逆川王子   久米崎王子〜鹿ケ瀬峠  

  参考になるサイト 熊野詣の一考察 


  藤白峠王子
      海草郡下津町橘本字中尾1615               藤白峠皇子の地図
 目標物=峠の頂上・地蔵峰寺
  駐車=道端に3台

 R42下津町小南交差点左折れ・加茂〒手前100m(右に交番)を左折れ登る事3km頂上にある。頂上近くで三叉路に成ってるところは岩峰寺の方に行かず右に登る。
 下津ICだと出て左折れ300m程で加茂川の橋を渡ると郵便局、続いて交番がある。
 藤白坂は昔も今も同じで、車で行くには大阪から藤白王子までの平坦な道が一変する。京都から熊野に向かう途中で最初に出合う長く険しい山道。藤白神社から歩くと約50分。現在は地蔵峰寺の左側に祀られているが、西律著の「熊野古道みちしるべ」や「和歌山縣聖蹟」によると王子址は、地蔵峰寺に向かって右側の家付近になっている。
 新しいトイレの前を少し登れば”御所の芝”、黒江湾から和歌浦にかけては名所図会に「熊野第一の美景なり。・・・西は滄海漫々として、淡阿の蒼翠雲波の間につらなり、沙鳥風帆一として奇ならざるなし」と絶賛している。白河上皇の行宮所にもなった事から御所の芝と呼ばれている。今はマリーナシティー、火力発電所、海南鋼管などに埋め立てられてしまい昔を空想するしかない。

       塔下王子址 御所の芝より黒江湾


 地蔵峰寺の地蔵さんは3mもあり、石の地蔵さんとしては日本一とか。「龍宮城ヨリ上リタル地蔵ナルカ故ニ今カキナガラ有之ト云」と1689年に書かれた熊野獨参記に書かれている、確かに背に蛎殻が付いている。近くの宝篋印搭といいこんな大きなものを峠の上までどうして持ち上げたのだろう。

  石の地蔵さんでは日本一とか   地蔵峰寺 宝篋印搭 



  橘本(きつもと)王子
    下津町橘本字岩屋谷1084-2                  橘本王子(阿弥陀寺)

 目標物=阿弥陀寺
 駐車場=

 藤白峠王子から車で登ってきた道を引き返す。ほぼ降りきった所、右に福勝寺がある。山口誓子の句碑のある駐車場の道の斜め前に2坪弱の地に「みかん発祥の地六本樹の丘」記念碑がある。田道間守公が垂仁天皇の命を受け非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)すなわち”橘”の木6本を中国から持ち帰り日本で最初に移植されたのが此の地だという。
 福勝寺へは階段を上がると170段程あるが、駐車場から再び藤白峠王子の方に100m程引き返し、切り通し状の道を左に入っていけばお寺の庫裡まで乗り込める。本堂右奥に裏見の滝がある。40年ほど前に来たときはチョロチョロと落ちていたように記憶しているが今は全く落ちていない。また境内には明治42年阿弥陀寺の橘本王子が所坂王子に合祀される時に建てられたであろう「偉哉田道之績」の大きな碑がある。

裏見の滝 福勝寺   地図 偉哉田道之績の碑


 駐在所まで下り、下津IC方面に少し登り擬宝珠の欄干のある加茂川の橋を渡り左の集落の中にはいると阿弥陀寺。
 昭和46年西律氏が地元の北尾音吉氏より「橘本神社は、阿弥陀寺の境内、門の西側に東向きに祀ってあったが、その社前にゴラ(空洞)の入ったタチンボ(橘)の木があり、大きく枝を広げ、岩屋山へ行く道の上に出ていた」と、200年以上の樹齢と推定、代々橘本神社社頭に植え継がれていたものらしいと著書「熊野古道道しるべ」に書かれている 
 神社合祀の際も存在は確認できなかったが、その後阿弥陀寺の境内にあった旧社殿の古材から1437年の棟札が発見され、王子の存在場所が確認できたと云う。

 *続風土記
  白河上皇がこの地に泊まり「橘の本に一夜の旅寝して入佐の山の月をみるかな」と詠まれたと記されている。

弥陀寺       熊野古道

 中右記の藤原宗忠は熊野からの帰路、ここから加茂川を下り塩津港から舟で紀ノ川の河口であった和歌浦に渡り、吹上の大砂丘を楽しんでいる。ちなみに紀ノ川が今のように真っ直ぐ紀伊水道に流れるようになったのは、1498年の地震と津波から(1495年の地震と書かれている本もある)



  所坂王子
    下津町橘本字鉢伏779                        所坂王子地図
 目標物=加茂川〒より400m右側
   駐車=鳥居の右を回り鳥居の上に2台

 擬宝珠の欄干のある橋上流に並んで近頃作られた木の立派な土橋(紀州名所図絵に載っている)がある。
郵便局の前を入り川に沿って登っていくと右側。「橘は、菓子の長上にして人の好むところなり」と謳われ、、橘の木が神社の境内にもあるが、今では菓子の祖神として信仰を集め、みかんよりお菓子の神様として菓子業界のお参りが多い。「六本樹の丘」や阿弥陀寺の元の橘本王子から5、600mも離れて、藤白峠王子、橘本王子その他の小祠を合祀して「橘本神社」が今の正式名称である。

橘本神社 橘の木 土橋と標識があるが木で作られていた


 


  一壷王子 
    下津町市坪字以羅谷270                         一壷王子地図
目標物=加茂第2小学校より200m右側
 駐車場=境内に2台

 所坂王子社(橘本神社)から南へ市坪川沿いに500m程上がると、市坪の道の右側に石の鳥居があり土俵があるので気が付く。ここが「御幸記」にいう「一壷王子」。昔は「沓掛王子」とも、また「山路王子」とも呼ばれたようである。現在は山路王子神社と称し秋の幼児の泣き相撲で有名。

一壷王子社 泣き相撲(奉納花相撲)



 蕪坂(かぶらざか)王子
   有田市畑字白倉427                         蕪坂王子地図
目標物=新しいトイレ
 駐車場=トイレ前に5台ほど止められる

 一壺王子から古道の標識に従い急な坂を登っていくと左に爪書地蔵の祀った児童会館がある。いよいよ峠に近づいた所で真っ直ぐ上がる道は「車は通れません」の標識がある。それでも200m程上れるが、それより徒歩だと途中階段があって150m程で”拝の峠”頂上の車道に出る。車は標識に従い右に、途中の4差路は左に上がるように取り1.5km余り迂回して拝の峠に達する。それを右折れし古道らしい山の中の道を右に下津湾を眺めたりしながら南進、突然開けて下りだした所に新しいトイレがありブロックで囲まれた蕪坂王子がある。
 昭和15年発行の「和歌山県聖蹟」によると「峠から宮原へ下る道の左側、竹藪になった社地がある。道から竹藪への入り口が参道で、入れば十二間にして左に折れ又十二間にして左右一間程高さ五、六尺の石垣あり……」
 昭和40年代に農道工事のため址地は跡形もなくなってしまった。少し下ると車道は右にそれる、2、300mで古道と交わる所の左上古道傍に「太刀ノ宮」があり、王子の雰囲気を味わえる。少し下ったところから再度古道は左に車道は右になる。ここから宮原側の爪書地蔵までの古道は軽トラがかろうじてと地元の人が云うので通らなかった。
 ここの爪書地蔵さんは暗くてよく見えないが、フラッシュを焚き写真で撮ると大きな岩が写るが地蔵さんは信心気がないのか見えなかった。

下津側の爪書地蔵 蕪坂王子 蕪坂王子から少し下って太刀の宮
民話の参考サイト


  山口王子
 
 有田市道字王子441-2                        山口王子地図
 目標物=鉄工所の下
   駐車=道端

 蕪坂を降りきった所、道の東側に山口王子の祠と説明板があるが、山口王子社跡はその20mほど南に100坪程の砂利をしいた広場があり、王子址は標識と手水鉢が広場の右側付近である。

山口王子社の遺物、手水鉢   山口王子址     有田川の渡し場跡   地図

 「蕪坂はこんなに長いのだから大根坂はどれほど長い事のだろう」と云う笑い話がある程、R42号線が出来る頃までこの峠も難所だったようだ。


 


  糸我王子
    有田市中番別所谷930                        糸我王子の地図
目標物=左側少し奥に広場
 駐車場=5台 

 山口王子から道なりに走らず途中から左の道にそれ、有田川にかかる宮原橋の側の天神宮に出る道が熊野古道だと云うが、これも昭和28年水害の後耕地整理で作られた道だ。天神宮近くの堤防に「宮原の渡し」の標柱がたっている。中右記に有田川の「借橋」を渡ると書かれているのは、上皇一行が濡れることなく渡る為に仮に川中の石の上に架けた極簡単なものだったのでは。岩田川(富田川)や石船川、音無川は神聖化されているのに比べ、有田川や日高川は只の川。

 有田川を渡りR42号線を藤並方面(左)に1k、国道の得生寺の標識を右折れすると中將姫伝説の得生寺がある。門前の一里塚から少し行き稲荷神社を左折すると「熊野古道民俗資料館」がある。見るべき展示品はないが休息には最適。ここ糸我稲荷神社は伏見稲荷より170年も先に降臨したという、扁額にもある本朝最初のお稲荷さんである。社地には樹齢500年と云う巨大な楠が3本あり、白河法皇が安全を祈願し奉幣したみぬさの岡の旧跡。

 糸我坂にかかると左側に広場があり奥に平成7年に建てられた糸我王子が祀られている。更に100m進むと三叉路。天保に建てられた大きな道標があり、左側みかん畑が王子社趾地。この三叉路を左に取るのだが、ここから逆川王子までの糸我峠は軽自動車なら問題ないが、2m弱の道で途中に鋭角もあるので、行けないことはないが無理をせず引き返し国道を迂回し水尻交差点から逆川王子に入る方が無難。
 尚、糸我王子址前の三叉路の右側に進む道が御幸時代の古道で逆川王子社の左横につながっていた。

糸我王子社 得生寺    地図 王子址三叉路の道標



  逆川王子
  
湯浅町吉川字岩谷925-2                       逆川王子地図
 目標物=R42号線吉川交差点右折300m右側
   駐車場=お宮の前

 無理をして車を乗り入れれば糸我王子址から500m程で舗装道は左に急坂をに600m程迂回して峠に戻る。古道は地道を真っ直ぐ進み竹藪の中を200m程歩けば峠に出る。糸我峠からは少し掘り割り状の道(ここが一番狭い)を南に降りていく。
 峠から降りきったところを右折れすればすぐに境内は昔のままに保存されているという逆川王子だ。
 名の由来は、江戸時代の東海道吉原の宿で江戸から京に向かう時、唯一街道の左側に富士山が見えるので「吉原の左富士」の名所?同じように、大阪からここまでの川は、総て右手方向に流れているが、此の川に来て右から左の流れを前に「わー逆さまに流れてるよ!」って単純に付けられたようだ。藤原定家はサカサマ(逆様)王子と記している。
 

       逆川王子 逆川王子


 逆川王子から方寸峠の間、江戸時代の道で中腹を通っているが、古道は左の谷を遡った。有田郡誌や続風土記は御幸時代の街道は方寸坂を越さず逆川の流れに沿い下りこの山の東麓を通過したと書かれているそうだが、川に沿って歩くのであれば逆川王子の名前にはならなかったのではないかな?。中右記は「登保津々坂」と書かれているから古道は方寸坂を越えている。
 峠を越へれば山田川に突き当たり飛越橋を渡る。下流の一里松橋、北栄橋(旧名は巡礼橋)は江戸時代に街道が変わりここから湯浅に入った。
 定家は湯浅を「此湯浅入江辺、松原之勝景奇特也」と松原の景勝を称えている松原は、今の街中を南進している道町通り付近だったようだ。江戸時代の「熊野詣紀行」の図からも少しは想像できる。宿場で海運の要所でもあり醤油や味噌などの産業が「湯浅千軒、広千軒」と云うほど栄えたのは江戸時代のこと。

近頃道端に移動した腰掛け石  醤油発祥地の看板のある醸造所  地図 街中の立石(1838建立)地図


 
 久米崎王子
    湯浅町別所字雲崎322                     久米崎王子跡地図
目標物=R42号線・広川橋手前左側焼き肉屋の上
 駐車場=そば屋さんの駐車場

 古い町並みを残す湯浅町内は熊野古道の看板だらけ、うっかりすると町中の道を行き過ぎて広川を渡ってしまう。町中を過ぎた頃道は右に曲がっている所を斜め左に、狭い道で途中頭がつっかえそうなJRのガードをくぐり、さらに進むと勝楽寺に至る。R42線を横切って坂を上がると左に久米崎王子址。御幸時代の道は山田川の飛越橋から湯浅駅裏、勝楽寺に至る山際を通っていたものという。
 王子址は今はR42そばにあるが、御幸道はもう少し山側を通っていたらしくこの辺の道も時代とともに海側に変わっていったようだ。
 
 建仁元年(1201)の古文書
 「熊野道王子社等破壊事、依
御宿願修造也、日時勘文遺之、其内紀伊国湯浅荘久米崎王子社破壊無跡云々、然上者為地頭之所役、如本丁寧可造営之状依仰執達如件  湯浅太郎殿  武蔵守 修理権太夫」 

久米崎王子址 紀伊国屋文左衛門の碑  地図

 勝楽寺には国の重要文化財の仏像8体があり、木造阿弥陀如来坐像は藤原時代後期の作品でいわゆる定朝様式の典型作と云われている。南北朝時代に寺は衰退し金堂は秀吉により京都の醍醐寺に移され国宝となっている。
 寺の過去帳に紀国屋文左衛門のの名もあり生誕の地の碑が建立され、碑の前の灯籠に松下幸之助の名前が彫られている。



廣八幡神社 
                          
 広八幡神社の地図
目標物=R42号線「名島」三叉路                      
  駐車場=神社前路肩
 この神社は熊野古道と関係有りませんが、「稲村の火」の津波で有名だから紹介します。

 久米崎王子から国道を1kほど進む。大きく左にカーブする所が三叉路になっていて右折、200mで左折し直進500m。 
 社伝では6世紀頃、河内の誉田八幡神社から勧進され、室町時代建立とみられる檜皮葺き・三間社流造りの本殿と柿葺き・一重母屋造りの拝殿をはじめ、国の重要文化財の建物がある。
 神社の境内に明王院の護摩堂がある。広八幡神社別当寺の仙光寺はかつては大寺であったが、現在はその一坊であった明王院だけが残っている。
由緒ある八幡神社でありながら、二つある大きな鳥居がなぜか神明系の靖国鳥居、南紀男山の焼きの傑作である1対の狛犬は話の種に見ておこう

 
         楼門       楼門の随身像  広八幡宮

 稲むらの火
 海岸から数百m離れているのに江戸時代に境内にあった多宝塔が150余年前の津波で倒壊したと云う。この津波をとき、積み上げていた稲に火を放ち村人を非難させたのは佐久間象山に学んだ30代半ばの浜口儀兵衛(梧陵)。小泉八雲は「生ける神」として物語にし、昭和初期の小学校の教科書に「稲村の火」にも載せられている。津波の後私財をなげうち住民とともに築いた高さ5m、長さ650mの防潮堤は今も近くの海岸に残っている。顕彰碑は境内左手の森の中にある。
 広川町では浜口家を「西の浜口」は銚子のヒゲタ醤油を「東の浜口」と今でも呼ばれている。また「稲村の火の館」が平成19年4月に開館、ここには儀兵衛(梧陵)の旧宅跡にあった数寄屋造りの家屋を活用した館内にはゆかりの品々を展示、その偉大な功績とその生涯を紹介している。「津波防災教育センター」も隣接し津波や地震災害に対する備え等が学べる。

浜口儀兵衛の築いた防潮堤    境内にある儀兵衛の顕彰碑 


  井関王子(津兼王子)
    広川町井関字北垣内3113-1                      井関王子
 目標物=広川IC・
  駐車場=説名板の前に1台

 久米崎王子から100m程、広川橋の手前を左折し上流に向かって1k余りで広川の殿橋。御幸時代の古道は殿橋渡らずに、そのまま広川右岸を進んで行き津兼王子に至ったものと思う方だ妥当。この付近も堤防が出来るまでは広川の氾濫でたえず街道が変わったものと思われ、江戸時代の街道は広川橋を渡り200m程左側、熊野古道の標識のあるところを左折して殿橋左岸に到り国道を渡り集落の中を抜けると再度広川に突き当たる、ここを渡り南進したであろう街道は今も生活道として残っている。
 津兼王子の石碑は広川インター事務所裏にある。R42の交差点からインターに入って30m程で左側道に出る(直進すると料金所だから注意)。高速用地を回るように40mほどで道をくぐるように右折れすると再び元の車線の反対側に出る。そこを左折し50m左側、説名板は道の傍にあるが、碑は草原の20m程奥、事務所建屋の傍にある。津兼王子が先にあって後に熊野街道が山際から移り井関王子ができたものらしい。
江戸時代の熊野街道はR42交差点のまだ西側を通っている。


 *続風土記
「井関王子の社周八十二間、村の北入り口にあり」

王子址と瓦製の祠 ICの敷地内、後ろは事務所の建物


 


  ツノセ王子 
    広川町河瀬字垣内143                         ツノセ王子跡地図
目標物=河瀬橋
 駐車=王子址前に1台

 井関王子跡から42号線と並行した古道を行くと旅籠跡や馬を養生した跡の標識が家の壁に貼られていたり、家の石垣には100年ほど前のここの集落を15m程の絵巻状にして描いている。朱塗りのケバイ鳥居が目立つ丹賀大権現はあるとあらゆる神さんが祀られていて、いくつかの王子も祀られている。広川にかかる河瀬橋を渡り、すぐ右側に王子跡の磐座がある。現在は津木八幡神社の渡御所。古くは角瀬、津ノ瀬と呼ばれていたが江戸時代から河瀬と呼ばれるようになったようだ。
 また河瀬橋北詰側の山麓に白原王子があって(今の丹賀大権現の辺か)、川向かいのこの地に遷され川瀬王子と呼ぶようになったらしく、藤原宗忠の「中右記」には白原王子をあたらしく作られて霊験あらたかであると記されている。

河瀬王子跡 元旅籠の家にこんな標識が 合祀されている津木八幡  

 江戸時代には広川を挟んで井関と河瀬に伝馬所が置かれ旅籠が何軒も並んでいた。また王子趾前の小橋のたもとに水が出て渡れないときは左の山麓を行くようにとの道標まであるのは、江戸時代でも増水で広川はたびたび渡れない事があったのかも。

 


  馬留王子
    広川町河瀬字奥ノ丁399                        馬留王子跡
目標物=名号石
 駐車=路肩

 ツノセ王子から南へ700m、三叉路になって徳本行者名号石があり、その手前左側のコンクリートの壁の一部をくり抜くようにして碑がある。王子祠は100mほど手前の左上にあって、以前は数個の階段石や社殿跡の玉砂利があったらしいが今は畑になり何もない。

 鳥羽院御幸記」や「中右記」には河瀬の馬留王子の名はない。先の白原王子と同じく新たに創建されたようだ。 この王子社を過ぎて南にしばらく行くと登りとなり、熊野参詣道の難所、鹿ケ瀬峠である。江戸時代に書かれた『熊野道中記』には、津の瀬王子の次に、沓掛王子、次に鹿ヶ瀬山が載せられており、この王子は沓掛王子と呼ばれていた。『紀伊続風土記』では、この王子を沓掛王子というのは誤りだとして、馬留王子社と書いてい以降、この王子社は馬留王子社と呼ばれるようになったようだ。

石垣の中の王子と、前方の三叉路の名号石 車も人も扉を開けて通ります    

 


 ○鹿瀬(ししがせ)峠
     駐車=草が生えているが茶店跡は広い            鹿ケ瀬峠の地図

 馬留王子から200m程で道が広く三叉路になっている所を左に鋭角状に登る、間違って真っ直ぐ進むとR42の水越トンネルの脇に繋がっている。登り口は鉄の柵で閉められている。頂上手前にも扉はあるがイノシシが畑に出てくるのを防いでいる柵だ。秋の夕方行った時は2頭と出会ったから、通った後は忘れずに閉めて置かねばならない。ここから鹿ガ瀬峠までは幅員2mで舗装されているので何とか登っていけ、標高354mの頂上は広く駐車、回転の心配がない。途中タンクのある鋭角は無理をして曲がらねばならないが、次の鋭角はアウトバック式にバックで30m程登ると再度鋭角がある。
 頂上付近には今昔物語に出てくる「法華の段」や憐れな話が伝わる地蔵、行き倒れ供養の為にか道しるべ地蔵などは昔の険峻な鹿瀬峠を忍ばれる、頂上には旅籠が3軒もあった頃も見ていたであろう幾抱えもある椎の大木が残っている。ここまで来たのだから日高郡側の小峠までは10分程、古道を感じさしてくれる。初めて文献にあらはれるのは950年頃に書かれた「いほぬし」
である。

峠には茶屋が並んでいたらしい  峠頂上はいがいに広い茶屋跡 舌だけが法華経を唱えていたとか
  
山道では時には山ダニに食い付かれることもある。もし食い付かれた時、引っ張って取ると牙が皮膚に食い込んで残り後々災いをします。この時の方法は色々あるようですが、絆創膏(傷テープは穴が開いているのでダメ)やセロテープなどを上から被せるように張れば2、3日で窒息死し取れます。