鹿ヶ瀬峠から切目王子

 藤白王子から難所続きだったが、この間は車で走ってもテクテクと歩いても楽な道だが、古道の雰囲気はイマイチ。

   和歌山の地図  http://kanko.wiwi.co.jp/walk/index.html
             
      久米崎王子〜高家王子   善童子王子〜塩屋王子   塩屋王子〜上野王子   上野王子〜切り目王子

   参考になる資料http://www.cypress.ne.jp/ojiri/oujiatowotazunetetate1.html 熊野古道に王子趾を尋ねて

  



 沓掛王子
   日高郡日高町原谷字新出902(王子谷)字披喜845     沓掛王子の地図
 目標物=山口三叉路の右上要壁の上なので見逃しやすいので注意
 駐車=道路脇
 
 鹿ガ瀬峠は歩いて越えれば1時間半弱、車は広川町の馬留王子から県道21、県道176をたどる旧国道の津木を大きく回り(広川IC〜津木ICに乗れば少し便利)トンネルから下りきった右に標識があるので鋭角に右折れる。新しい道の切れる手前200m、山口の三叉路の沓掛王子の標識がある所はもともと弁天社の社地で明治10年まで鍵掛王子があった。いつのころか御幸時代の王子谷にあった王子社が此処に移って鍵掛王子となり、今はここが沓掛王子址。沓掛王子の標識は家の陰、それも少し高いところにあるのでわかりにくい。
 更に鹿ヶ瀬峠に向かい300mほど、新道と旧道の合流する右側の橋の袂に「伝馬所跡」と板の標識があるが民家だけ。新道をなおも進むと終点金魚茶屋、それより300m上流の板碑がある峠側、小さな谷が”王子谷”越えた左側の田が御幸時代の王子址であるというが何の標識もない。
 車は金魚茶屋の少し上に駐車場とトイレがあり「これより車は乗り入れできません」と書かれている。農作業道で待避所が少なく節度のない観光客が多くなったので乗り入れ禁止にしたらしい。300m近く上流の板碑の所までは狭いながらも舗装もしていてUターン出来る場所もあるのでせめてここまで入れてヨ〜っ(まさしく観光客モード(^O^))。板碑より500mほどは地道で江戸時代の幅員の道が続く。少し歩くとゴロタ石の石畳風にしている。これは10年ほど前にしたものだが、もう少し登ると山石を使った昔の石畳道となる。これも数十年前はこんなきれいなものでなかったのだが、近年修復したのであろう。東海道箱根の石畳道でも延宝8年(1680)に作られたというから、この道も江戸時代のものだろう。

       沓掛王子址 鹿ケ瀬峠の石畳             題目板碑

 *石畳
 熊野古道に人気が出て、あちこちで石畳や石畳状の舗装を行っているのは疑問に思っている。古道とはどの時代以前の道を言うのか定義がないのでやむを得ないが、自分的には室町以前と思っている。街道の整備が行われ始めたのが17世紀江戸時代に入ってからだ。それも石畳にしているのは雨による坂道の荒れを防ぐためであって、ヨーロッパのように平坦な公道に石を敷きつめると云う考えは日本にはなかったそうだから、歩きやすいが為の石畳整備はいかがなものであろう。
熊野古道の石畳についてはhttp://www.kumadoco.net/kodo/highlight/stone/index.htmlに詳しく書かれている

 *平安時代の道路は地道だった
 平安京の街路も基本的には地道のままであったので、雨がすこし降りつづくとたちまちにして道はぬかるみになったようだ。平安時代前期の五条大路の道路遺構が、平安京の西端に近い右京六条四坊九町での発掘調査をみると、道路の真ん中には深くえぐられた牛車の細い轍の跡が50本以上も刻まれ、牛の足跡も400個以上も見つかっている。都ですらこの様な状態だから熊野への山道は獣道も同然だったのでは。



 馬留王子
   日高町原谷字下岡362                  馬留王子の地図
 目標物=光明寺下
 駐車=道路脇

 昔の公家さんがよじ登ると表した峻険な鹿瀬峠(ししがせとうげ)は標高350m。馬上で難儀したので峠の両側に馬留の名がついたのは江戸時代からで、こちらの方が古くから馬留王子と呼ばれている。
沓掛王子から1.5kmの左側、道が少し広くなっていて分かりやすい。 
 原谷から御坊に向かって左側に何カ所かいかにも旧道と分かる道がある。狭いが通れないことはないので乗り入れて昔をしのぼう。馬留王子址の少し手前右道端に「四ツ石聖跡」左に皇大神社入り口ががある。沓掛王子、馬留王子、内の畑王子を合祀した境内はそれほど広くはないが、いかにも古そうな神社である。
 四ツ石聖跡は後白河上皇が熊野御幸の時、公卿
等と共にこの石に腰掛けられたと伝えられているが、説明板には「「建仁二年後鳥羽上皇に随行した藤原定家の御幸記によるとこの地で小憩した旨かかれている、もしかすると休養所の居石だったかも。

西の馬留王子とも言うらしい 説明板が胡散臭い四ツ石聖跡 合祀されている皇大神社



 内ノ畑王子
   日高町萩原字垣内1970(御幸当時)、1500(現在)   内ノ畑王子地図
 目標物=なめら橋を右岸に渡り新しい道を左折れ150m
 駐車=甫場整備で十分な道幅がある

内ノ畑王子は槌王子とも呼ばれていた。定家の建仁元年熊野御幸記に「鹿瀬山を過(略)暫く山中に休息小食す、此処にて上下(身分に応じ)木の枝を伐り、分に随て槌を作り、榊の枝に結び付け、内ノハタ(畑)ノ童子に持参し、熊野詣日記に「槌をつくりて木の枝につけて、徳あり/\とはやしてまいらするなり、」とあるので、槌を榊の枝に結びつけ供えたらしい。罪人を槌で打ち罰するというこの神の殿前に、自製の槌を供え罪業深い我が身を清めようと云う信仰があったのかも。
 今の社址は耕地の拡大と共に、少し変わり隣地の山裾に遷されたとされている。元は内ノ畑王子正面、西川左岸に近年まで古道の細い道型があり、この付近の西川沿いにあった。
 内ノ畑王子址の50m北に今熊野神社がある。鳥居は白木作り、直線の急な階段は107段あり雑木林が何とも感じがよい。また社殿の覆い屋の壁はこの辺の産物である黒竹で作ってるのはおもしろい。

          内ノ畑王子     草むらに放置されている石塔      今熊野神社の階段



 高家(たいえ)王子
   日高町萩原字王子脇1670           高家王子社地図
 目標物=王子橋
 駐車=境内に乗り込む、

 内ノ畑王子から1.7kmでT字路を左折100mで王子橋の右。狭いが思い切って乗り入れると境内で回転できる。
 鳥居から拝殿までの参道は真ん中に1mほどの幅で砂利を敷きその両側が人間の参るようにコンクリート舗装をしている。真ん中は神様が通られるので人間が歩かないようにしているのかも。
 元弘元年(1331)、大塔之宮熊野落ちの時此の社に泊まられ、御神像を刻みて祀れり、丈一尺九寸当社に蔵してありと、神社前の由緒書きにある。御幸記にはないがそれより90数年前の「中右記」に多家王子に奉納したとあるし、源平盛衰記の惟盛入道熊野詣に「鹿瀬の山を越え過ぎて、高家王子を伏し拝み・・」と出てくる古い王子だから、大塔之宮は御神像を本当に彫られたのかもしれない。

        高家王子神社

  比井若一(ひいにゃくいち)王子神社      地図
    日高町比井992
  目標物=比井小学校校舎と体育館の間を入る
  駐 車=鳥居の前

 この若一王子神社から前記の高家王子までの間に志賀王子神社、小中(おなか)王子神社があることも考え合わせると、御幸時代初期は海路を来て比井若一王子神社に上陸し熊野に向かった事が十分考えられる。
 「日高郡誌」に里傳としながらも、花山法皇は津久野に上陸後熊野に向かったと書いている。津久野は住んでいるのは今は3軒だが、宮には77軒、旧家には48軒との記録あり、以前は相当栄えた港だった。ここから500mと離れていない比井若一王子神社から、保元三年(1158)の奥書のある法華経八巻が、宝歴七年(1757)社殿修理の時に偶然発掘され、鋳銅製経筒と常滑系の甕の容器と共に重要文化財に指定されている。
 万葉集にこの少し北の白崎の歌が多く残され、扶桑略記に「延喜七年(907)十月二日、太上(宇多)法皇幸紀伊国参御熊野山(中略)法皇以去十一日自切尾湊御舟赴向熊野神社(中略)傅聞進御道中泛海傍山其路甚難」、中右記、為房卿記などにも紀伊水道で舟を使用した事が書かれている。
 

若一王子神社 津久野の入り江 小中王子神社の杜


  田藤次王子(善童子王子)
    御坊市富安字宮ノ前1347             善童子王子地図
  目標物=山の裾
  駐車=道端でも良いが王子の前まで乗り込めば広場がある

 高家王子から出てJRガードをくぐる直前左折れ、道なりに2.7kmで一里塚跡。池の横を通り標識に従っていくと三叉路に地蔵さんが祀られている。ここから左200mほどの所にお寺が見えるのは足切り地蔵、今でもで巨大な草鞋が奉納されている。
 三叉路の所より300m、右山裾に田藤次王子が見えてくる。高家王子も由緒正しいお宮のようだが、田藤次王子も大般若経六百卷を蔵する大社であったと伝えられ、五体王子に次ぐ准五体王子の一つであるという。明治42年合祀され御坊駅近くの湯川神社には富安王子と書かれている。
 江戸時代の街道は善童子王子前、徳本名号石を右に真っ直ぐ小松原に進んでいる。徳本上人の名号石は熊野古道に何と多い事よ。思いつくままに和泉府中、和佐、薬勝寺(大池)、汐見峠、祓戸、藤代坂、蕪坂峠、糸我、鹿ケ瀬、田藤次、中山峠、砂子(中地)。江戸時代の熊野街道を巡ればもっと多いだろう。

善童子王子の杜 善童子王子 一里塚 合祀されている子安神社 地図


  愛徳山王子 
    御坊市吉田字栗林2167             愛徳山王子の地図
  目標物=右側の花壇
  駐車場=道路脇

 愛徳山王子へは田藤次王子から広い道に出て100m程南の四差路を左折、家の間の狭い道は100mほどで広い道に出る。300m程行くと右に花壇、三叉路の古道標識のあるところから家の間の50cm程の細い道を進んでも良いが、花壇から30m程南に行き、角に「右紀三井寺道」の70cm程の石標を右に入り舗装が切れるところまで乗り込み止めても良い。そこから10m程行き左に狭い道を取ると竹藪の中に入っていく100m右側奥。10a程の広場の奥にある。この広場は防風林に囲まれ、あたかも王子のための雰囲気の良い広場に思えるが、これは両側のような荒れたみかん畑を整理してできた王子址である。

愛徳山王子跡 竹やぶの中を通って 道標「右キ三井寺」


 *御坊市史によれば、吉田村手鑑には「此社先年退転いたし候様成行之所、慶安四年御公儀より愛徳山之義を御尋被成、其節境内三拾間四方に被仰付、則社鳥居御制札共従御公儀御立被為遊候由申伝へ、御制札其後朽失し、社鳥居大破に及び有之候」後鳥羽上皇より修造の功として勧賞頂いた程の王子だが近世には荒れ果ててしまった。 
 *紀伊名所図絵
  延喜二十二年十一月十日夜半、新宮に祀れる御霊、日高郡寒川郷の大原の峰に降り、その後七年、延長六年二月十五日、阿多木ヶ原に出現し給いて、愛徳権現として祀る。それより三十一年を経て、寛治五年八月廿二日巾子(こし)形原に還り、天仁二年二月十三日、糸尾宮に鎮座し給う。
  神名の愛徳(あたぎ)は地名阿多木ヶ原より起これるにて、かの地に祀れるを上愛徳と称し、此の地に祀れるを下愛徳と称す。。御幸記に愛徳山王子と見えたるは当社より分かち祭れる祠なるべし」




道成寺
   川辺町鐘巻1738                 道成寺駐車場の地図
 目標物=八幡宮前から左に取り野手酒店を左折れすぐ右に登る
 駐車場=道成寺左手の野手酒店裏を登ると境内に無料駐車場あり

 大宝元年(701年)創建された和歌山県最古の寺。発掘調査でも白鳳期の法隆寺型伽藍跡が確認されている。文武天皇妃で聖武天皇のご生母の藤原宮子の発願で建てられたと言われているが、宇多上皇から亀山上皇まで七上皇が百九十余年にわたり百一度、女院の御幸は十二方、三十五度を数えているが道成寺に参ったと云う記録は全くない。
 梅原武は昭和53〜55年に行われた道成寺の発掘調査が、この寺が法起寺様式の白鳳時代の大伽藍であったこと、また、北面に安置されていた本尊千手観音の胎内に納められていた八尺二寸の木芯乾漆仏の残骸が義渕作と伝えられる白鳳仏であることなどによって、道成寺を文武天皇の勅願寺とする伝承は信ずるに足るとした上で、このような僻地に壮大な勅願寺が作られたのは、そこが宮子の出生地であったからだといっている。
宮子は白鳳8年(679)、文武天皇は天武12年(683)に生まれているのでつまり姉さん女房、22歳の若さで道成寺を建てさせたのだからすご〜〜い。
 宮子もすごいが清姫はまた別のすごさがある。道成寺と言えば何と言っても安珍・清姫の物語は有名。

2代目の鐘は歌舞伎で知られているように清姫の怨霊で落とされた。その鐘は京都の妙満寺にあり、平成16年秋に420年ぶりに3ヶ月間だけ里帰りした。

 高さ105cm,直径63cm厚さ5.3cm重さ約250kg
 歌舞伎のように鐘には飛び込めない。
道成寺 山門 里帰りした時の鐘

 安珍清姫の物語は、「大日本法華経験記」(長久年間、1040〜1044)→「今昔物語」(元和3年、1120)→「元亨釈書」(元亨2年、1322)→「道成寺縁起絵巻」(応永時代1394〜1427)になったよ云うのが定説。その他中国の「白蛇伝」、古事記の「本牟智和気王(ほむちわけのみこ)」、京都高山寺の「華厳祖師画伝(華厳縁起)」などの影響があるとも言われている。地元の郷土史家の記録誌「郷土雑録」に山中胤次氏の「安珍清姫物語講演記録」に詳しく延べられている。
 「今昔物語」「道成寺縁起絵巻」では、主人公には名前は無く寡婦であった。初めて「清姫」の名前が出てくるのは、1742年(寛保2)初演の浄瑠璃「道成寺現在蛇鱗(どうじょうじげんざいうろこ)」からが定説になっているらしいが、享保七年(1722)の「熊野道中記」に「・・本堂の内清姫十七歳の像あり」、「紀州眞那古庄司娘清姫奥州白川の僧安珍法師八百年に及縁起繪巻物披見百銅」との書かれ方からすると、もっと前から清姫の名前があったようだ。

          



 クハマ王子 
   御坊市吉田字八幡226-1                     クアマ王子の地図
 目標物=JR踏切手前50m
 駐車=クハマ王子の右側に1台とめられるが道端で十分

 愛徳山王子から山裾を回るように400m程、踏切手前の山裾にある。
 田藤次王子から標識は八幡山をぐるりと東に迂回して御坊駅近くの小松原宿に向かい再度東に向かったS字状に見えるが、御幸記の頃の小松原は今のところより東にあったのでそんなにS字にはなっていなかったようだ。

  旧址は20mほど御坊駅よりのみかん畑を開墾した際に遙拝所として現在地に建立
明治41年、前の愛徳山王子と共に近くの八幡神社に合祀された。道成寺に祀られている宮子姫像は元九海士王子社にあった御神像と郷土誌家は書いていて、元は天照大神像であったという。

奥の家の前が蛇塚 地図         九海士王子 明治初期の道成寺(折り目右山裾)付近の日高川

 八幡神社前の四差路と道成寺の中間の道左側に「清姫の蛇塚」碑があり、蛇塚はその50m程奥に有る。



  岩内王子(焼芝王子)
    御坊市岩内字田端515                       岩内王子址の地図
  目標物=岩内簡易郵便局の交差点より100m、赤い屋根の岩内コミュニティー館
  駐車=コミュニティー館駐車場

 古道は日高川の氾濫で何度も変わっているので明確でない。街道マップではクハマ王子から湿地であったことを思わせる流れのない水路沿いに御坊駅近くまで進むとなっている。熊野御幸記では小松原宿所のそばに深渕、中右記では日高川を道成寺の前で渡っていると書かれている。今も北河原、中島などの小字名が残り、何本かの支流となっていたであろうことが「日高平野小字名雑考」の6,7ページに詳しい。
 クアマ王子から踏切を渡り100mで新しい道を横切ると道は狭くなる。50m程で小さな橋の袂に石の道標がある。右に迂回するように万楽寺の前に出て南進し100m程で県道に到る。この付近を「御所の瀬」と云い、後鳥羽上皇の頓宮もこの付近であったようだ。大正初期の『湯川村郷土誌草稿』に「其地今吉田村ノ地トナリテ御所ノ瀬ノ名ヲ残セリ。」
 
 野口新橋を渡りすぐ右折れ、田の中を走り集落から一本道を走っていくと、大きな通りを横切り100m左側、岩内コミュニティー館の玄関前に旧跡碑が建っているが、ここも元の王子趾ではない。近くの日高川の中に小字名として王地の地名が土地台帳にも残っていて、大正年代にその川の中で楠の大木を何本か掘り起こしたとので「王地」は「王子趾」に間違いなかろうと「熊野古道に王子社を尋ねて」に分かりやすく書かれている。
 藤原宗忠の頃の社地は
「紀伊名所図絵」に「今也久志波王子といふ。此地河流變遷し、岩内王子の社地滅没して、後世小社をこゝに建つ。」と書かれているように今の日高川の中になっている。

     碑の文字は「焼芝王子址」 日高川 野口新橋、蛇の親柱

 道成寺縁起の清姫は大水が出ていたので安珍は舟で渡り、追ってきた清姫は船頭が渡してくれなかったので蛇になって渡った。2km程下流R42天田橋付近でさえ江戸時代に「川ハバ七町半 常ハ徒渡リ 洪水ニハ舟有之 旅人ノ船賃不定」と熊野獨参記巻二(1689)に書かれているから、普段の水量なら清姫も泳ぎ渡らなくともよかったのだ。

 *「紀伊続風土記」
 「也久志波王子社 境内周三四間 村中にあり岩内王子を祀るという、岩内王子は御幸記にでたり、此地河流変還し、岩内王子の社地滅没して後出小社を此に建てしといふ。」(王子址滅没は元和元年(1615)の大洪水)




  塩屋王子
    御坊市北塩屋字山畑1144、1145                    塩屋王子地図        御幸記読下し(11日
  目標物=遠くからでもそれらしい森が見える
  駐車=鳥居を入って左に上って行き境内

 岩内王子から南に下ると生コン工場の手前で熊野川(いやがわ)の小さな橋を渡り左折広い通りを横切り右に登って行く、ここから集落内の狭い道を抜け、広い道に出たところで左折し中学校前を道なりに小さな峠を越え下ったT字路を右折れ新興住宅地内を登り切った所の左20m程の所に塩屋王子への標識があるが、ここからは歩きでないと塩屋王子へは行けない。車はそのまま坂を下りていくとR42線の変則T字路手前に出るので左折し旧国道を南進し500m程で左に塩屋王子の森が見えてくる。 此の間は大正時代に拡幅されたものの昔の面影を残し、熊楠が渡米前親交の深かった羽山繁太郎、蕃次郎兄弟の屋敷跡、またその妹信恵の嫁ぎ先山田家がある。
 塩屋王子は別名、美人王子と呼ばれているが、美しい女の人という意味ではなく高貴な位にある着飾った官の職名であるとの説があるので、ここで祈っても美人になれないかも。
 7〜8月には国道沿い数百メートルにわたり王子川に「ハマボウ」のきれいな花が見られる

塩屋王子 後鳥羽院の御所の芝 ハマボウの花


 *新古今集の白河院の歌
  「立ちのぼる塩屋の煙浦風になびくを神の心ともがな」

 上野王子の中間に「清姫の草履塚」、上野王子を過ぎて「清姫の腰掛け石」がある。
 「草履塚」は一里塚より旧国道を300m程で左にバイク店があり、それより50m程進むと直進状の狭い旧道を入り約200m弱の左側畑の中にある。
 「腰掛け石」は近年まで道の東側、民家の前に有ったが、今は道の右側にチョットした公園に保存されている。

野島一里塚  地図   清姫の草履塚   地図          清姫の腰掛石   地図 

 *草履塚
 「道成寺縁起絵巻」の絵や文では、真砂から切目王子までに草履が脱げてる。上野付近は火を噴きながら全力疾走しているから、「草履塚」や「腰掛け石」がここにあるのはチョットと思い、調べるに〔紀伊國名所図絵〕に「・・・どうじょうじえんぎに、女の草履を脱ぎすつる圖あるより、好者のもの標せしといふ」
 昭和11年刊の「名田村誌」には「・・・・安珍の後を慕ひ来れる清姫は、このあたりの古き松に昇り、逃げ行く安珍の姿を求めたる後穿ちをりし草履を其枝にかけ置き、更に追跡を続けたりといふ。又この付近に袈裟掛松といふありたる由にて、逃れ行く安珍身に纏ひたる袈裟を松の枝にかけ、身軽に装いて逃避行を続けたりと云ひ傳へらる。」

 


  上野王子 
    御坊市上野字梅田1293         仏井戸の地図
 目標物=和歌山高専学校より500mで国道が少し下り出す、左側
 駐車=道端
 塩屋王子から旧国道を進むとR42に合流、50m程で左折し小さな峠を上り、右に掘割状の狭い道を進み再び国道と合流し南進。
 名田小学校と上野川の中間、R42線の東側、仏井戸付近。前の道は小栗街道。
 井戸仏の仏像は、最下段に1mほどの地蔵菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩を石に刻みその上に石を積み上げていると云う。井戸の中に入ることができるが、普段は見ることができないが、年に一回井戸替えの時に拝むことができる。

元の上野王子(仏井戸)

 
 *紀伊風土記
 「古道のそばにあり、上野王子の旧地也。井戸に仏三体あり、是古の王子の本地仏にして、回録に罹りしとき没したるなるべし・・・」
 (今でも年に一度の井戸掃除の時に三体の仏様を拝むことが出来ると云う)
 *紀伊国続風土記に「今の往還の東北畑中に道あるを小栗街道といふ。道の側に仏井戸といふあり、是王子の旧地にて野径といふい当たれり、その社中世回禄にかゝりて廃絶せるよし寛文記に記せり」

 *長秋記  大治五年十二月廿一日の条
  上野御宿 右衛門督宿所焼亡云々 男女両子無為還着 為慶廿二日可令入洛御 云々




  上野王子
    御坊市名田上野字浜畑1528           上野王子の地図
 目標物=名田小学校より700m、名田漁港・土地改良区センター
 駐車場=前は浜だからどこにでもおける

 古道は塩屋付近は山側にあるが、名田町内は時々国道と交わりながら平行して主に海側にある。
 上野王子の碑は漁民センターの横にあるが、元は旧地の仏井戸から火災に遭い今の地に移された後世の上野王子跡。小さな橋が架かっている手前、名田漁民センターと土地改良区センターの間に石碑がある。

 由緒深き社地は一時荒れるに任していたが、昭和8年日高中学校が「上野王子社遺跡」の標柱を建てたりして保存に努め今に伝えられている。

              上野王子址



  津井王子
    印南町大字津井字箱屋平             津井王子跡の地図
 目標物=閉店している「農林屋」
 駐車=農林屋前

 閉めている古いドライブイン(農林屋)の中央奥付近で埋め立て時に、瓦や土器が出たのでこの付近が社殿が在ったといわれる。またドライブインの左後ろの田が王子田と呼ばれ、南側の低くなっている道付近には昭和40年代に未だ境内の松林の残木があったという。

津井王子跡(店の中央付近)

*「和歌山県聖蹟」
御幸記の津井王子址について「津井川の流れに沿う細長い平地が田でその西に接して、四三〇、四三一が王子田と称されるもので、王子はここにあった」

 

  叶王子
    印南町印南字法華堂745               叶王子の地図
  目標物=国道左にJAの集荷場、それより100m程で左に入り、再度左折50m
  駐車=鳥居の前に1台

 津井王子からR42線は緩い坂を登る、叶(かのう)王子西側で深く掘り割られて左に大きくカーブする。少し下り前方に信号が見えだした頃左に津井王子の標識がありその道を入る。
 津井王子を移祀したことは間違いないが、移祀した記録は残っていない。「和歌山県聖蹟」は江戸時代初期としているが、「熊野道中記」(1722)に”津井村 小川あり 叶王子 印南坂下の中道の左」と書かれているし、小原桃洞著「熊野中辺路採薬巡覧記」(1800頃)にさえ”津井  叶王子の社あり”と書かれているので、江戸末期頃移したものと思われる。

 

叶王子

  *「南紀神社録」(延享3年写本)
 「叶王子社印南村に在り、祀神未だ考えず、祭文に曰く
 当社叶王子大悲権現云々千早不留神仁祈乃叶波也志留久毛色彌阿良○礼仁計留
干時 弘治三年五月二十五日」



  斑鳩(イカルガ)王子
   印南町印南字森平3599(大将軍)内垣内3450(富ノ王子) 斑鳩王子
 目標物=R42号線・切目崎ドライブイン跡地南100m左上
 駐車ドライブイン跡空き地

 叶王子から「街道マップ」は浜に出るように書いているが、この辺は20年ほど前に埋め立てられ、印南の町中でさえ昭和の初め頃埋め立てられたと聞くので、平和橋までは車は町中を適当に抜ける。
 江戸時代の「紀伊國名所図絵」の絵でも現代の印南駅より上流のように描かれているが御幸時代の街道は更に山側を通っていたらしいが、今は痕跡がない。
 大将軍址 
王子址はR42沿い紀南ドライブイン跡地斜め前高台にあるのが「和歌山県聖蹟」のいうイカルガ王子の旧跡。
 平和橋とドライブインの中間付近で左に登る農道があり、その突き当たりが鳥居があり社もある立派な王子址だ。
 富ノ王子址
 ここがイカルガ王子の旧址かどうかは明確でないが明治41年合祀されるまでの何百年間は鎮座していた。光川集落の森長一氏宅付近が社祠があったところで、この庭で泣き相撲があったのを見たと老人から昭和40年代に聞いたという。

       斑鳩王子社


  切目王子
    印南町西ノ地字東風早328              切目王子神社地図
 目標物=R42左に大きな塔型の標識があり奥に森が見える
 駐車=境内

 
国道から分かれて右にやや下り坂を100m程で切目王子だ。元は東隣の丘の上に壮大な神社があったと伝えられているそうだ。
 森の外観はそうでもないが、境内にはいるとかすかに窪地になっていて、樹高15m近いヒメユズリハ、ウバメガシ、モチノキ、ツブラジイ、ホルトノキ、イチイガシムクノキ等の海岸性の木々が社殿を取り巻き、いかにも太平記に出てくるだけの歴史を感じさせてくれる。
 1169年頃、後白河上皇撰による歌謡集 梁塵秘抄に「熊野に出でて 切目(きりめ)の山の梛(なぎ)の葉し 万(よろづ)の人のうはきなりけり」うはき(上被)は笠飾り、熊野詣の帰り道、多くの人が切目王子にある神木の梛の木の葉を取って、笠の飾りにしたらしく、その梛の葉は健康のまじないになり、郷里への土産にしたという。
 また平清盛(1118〜81)も、平治元年(1159)、子の重盛らと熊野詣の途中、ここまで来たところ源義朝らの挙兵を知る。ここから急きょ京に引き返すとき清盛・重盛の父子は王子社の梛の枝を折って、それぞれの左袖に付けて護符とし京に引き返した。京では、義朝らは二条天皇を監視下におき、後白河上皇を幽閉、内裏を制圧してほぼクーデターを成功させていたが、清盛は二条天皇を救出して義朝追討の宣旨を奉じ義朝を倒した。清盛の平治の乱の勝利に導いたのは熊野権現の御加護で平家は不動の地位を得る。
 後鳥羽院が切目王子での歌会で詠んだ”熊野懐紙”として西本願寺に国宝とし残っている。ちなみにこの時、後鳥羽上皇の年齢は21歳、4度目の熊野御幸だ。この旅から帰った翌月、定家など6人に命じて「古今和歌集」を撰進させている。

       切目王子社

 *切尾湊
 〔扶桑略記〕延喜七年十月熊野御幸の條に「十七日辛酉。及夜仲平朝臣自紀伊國來復命。法皇以去十一日。切尾湊御舟。赴向熊野神社云々。」と宇多法皇がこの湊から舟を使った事が書かれている。この切尾湊は〔紀伊名所図絵〕には「今其處を失へり、按ずるに、切目川の海口の西のかたにさし出でたる切目崎を切尾といひて、其邊に湊ありしか。」と書かれている。

 *道筋の民衆
 江戸時代の紀州藩主重倫(しげのり)が隠居となった後の寛政十一年(1799)紀南に巡遊している。その時の道筋へ書状が来たことが「荒坂村郷土史」(熊野市二木島町)に書かれている。
 一.御道筋領に罷出候男女見苦しき着用仕間敷候、勿論御法度の衣類着用仕間敷候。
 一・御道筋より下手筋に罷在、相片付拝見可申候、尤も可為無刀事。但し女子供かむりもの等仕間敷候。煙草のむ事無用、   若急に雨抔にても降り候共、一円たちさはぎ申す間敷事。
 隠居となった藩主の巡察ですら庶民にこれほどのことを言い渡している。他にも道路の補修、架橋、休憩所の設置、本陣の準備、荷物持ち等々多くの住民がかり出されている。
 上皇一行は多い時で八百人と云われているので当時の沿道の荘園がその賄いに当たっていたからその負担も相当なものであったことだろう。