切目中山王子〜滝尻王子

                 

 切目からは歩くと峠あり浜あり川ありと変化にとんだコースになるが、車で走るのは変化に富むなんて言っておられないところも。

和歌山の街道マップ  http://kanko.wiwi.co.jp/walk/index.html

   中山王子〜三鍋王子  南部〜出立王子  秋津王子〜稲葉根王子  一ノ瀬王子〜滝尻王子  潮見峠越



 切目中山王子 
   印南町島田字上榎木峠2916                 中山王子神社の地図
 目標物=峠の頂上
 駐車=境内

古い道は、切目王子の前を進み集落を抜け川沿いの道に出る。左折しJRのガードをくぐり線路沿いに道をたどると切目川を渡る。集落を向けて進んで鋭角に右折し(この辺から標識あり)すぐ左折れ集落の中の急な坂を上っていく。途中で広い農道を横切りさらに登るとやがて山頂に近づき見晴らしの良い中山王子社に着く。
御幸記に「山を越えて切目中山王子に参る」と出ているので、現在の場所は後世移されたものであろう。榎木峠に鎮座する以前は現社地より東の王子の谷と呼ばれる地にあったと伝わるが場所は特定できないという。
 中山王子から真っ直ぐ進んでも良いが、100m程戻り「直進中山王子」「右折岩代」の看板がある所を右折すると2、300mであるが乗用車がかろうじて通れる(幅員2m)暗い林の中は御幸時代を感じさせてくれるが、入り口が直角で入りづらい。岩代の国道近く徳本上人名号石までも道は狭いので走行注意。

素晴らしい眺めの榎木峠(中山峠) 切目中山王子神社



 岩代王子 
   南部町西岩代字野添                       岩代王子
 目標物=岩代駅の北150mの踏切
 駐車=踏切手前の農道三叉路脇

 徳本上人名号石から国道に平行した一段高い畑の中を進み結びの松の近くでいったん国道に出るが、結びの松を100m程過ぎたて左に上る道があるのが古道。坂を下り岩代川を渡ったところから海に向かってR42のガードをくぐり進む。岩代駅のすぐ北側の線路を渡った所にある。
 和歌や名前を奉納する社であったからか、岩代を詠んだ多くの歌が残っている。中でも有馬皇子が謀反の疑いで連行されていく途中詠んだ”磐白乃浜松之枝乎引結真幸有者亦還見武(いわしろのはままつがえをひきむすびまさきくあらばまたかえりみむ) ”はよく知られる。徳富蘇峰筆「結びの松の記念碑」が王子より数百m手前のR42号線そばにある。残念ながら松は小さいのでガッカリする。
 当社については「為房卿日記」「中右記」「熊野御幸記」等に王子社名が記録されている。    

岩代王子址 岩代の浜、膝上まで濡れて渡河 有馬皇子・結び松の碑

*中右記、
  「岩代王子に奉幣、石代を過ぎ了ぬ。千里の浜に於いて昼養いの次、海水に浴す」
*新古今集巻十九(神祇)
 「熊野へ詣で侍りしに、岩代の王子に人々の名など書きつけさせてしばし侍りしに、拝殿のなげしにかきつけ侍りし歌」として「いわしろの神はしるらむしるべせよ頼む憂世の夢の行末」



 千里王子
   南部町山内字千里谷口259                    千里王子
 目標物=千里観音
 駐車場=広い駐車場あり

 岩代駅前→千里球場→R42→峠で右折 →道なりに進む→駐車場・階段を下りる。
 途中の千里球場でゲートボール場下まで乗り入れ、線路を渡り浜に出てみるのも良い。
 R42に出る直前で右に降りていくように千里王子への案内がある、車は通れないことはないが、途中すごく狭い所があり無理をして行ったところで濱に出て行き止まりだ。それにこの道は、浜を歩くと小川や線路など危険なところがあるので、みなべ町はこちらに道標を建てているだけだで古道とは何の関係もない道である。
 歩いてみたい人は、岩代王子下の砂浜から歩いても良いが少し大きめの川を渡らねばならないので、踏切まで引き返し岩代駅前を過ぎてまもなく再度踏切を渡る。線路に平行している道を南進、途中150m程JRの線路の脇を歩かねばならないので十分注意が必要。ここから熊野詣で唯一海岸の白い砂浜を歩くことになる 。いくつかの小川を渡らねばならないが越えられない川でないので海岸を歩いて往時を偲ぶのが楽しい。海岸で岩が露出しているのはこの付近に多い「さざれ石」だ話の種に気をつけて見ておこう。
 砂浜がほぼつきる頃千里王子がある。古道はそのまま浜を行き大目津から目津崎の岬を巡っての海岸沿いを行ったが、後世に海岸線減少消失したので千里観音の裏の谷を登り「峠の地蔵」を右折れし南部に下るようになる。この下り坂も木々が生い茂り昔を彷彿とさしてくれる。下りきり線路をくぐる直前で左に登っていく道は先ほどの峠の地蔵近くを通りR42線沿いに東岩代に通じる道は海岸を通らなず片倉峠を越す江戸時代からの道。
 千里王子は以外と古く延暦年間(781年)に鎮座したと記録されているという。花山法皇が熊野詣での途中、病に臥された枕石と「旅の空 夜半の煙と のぼりなば 海士の藻汐火 焚くかとぞ見む」の碑がある。千里ガ浜の美しさを伊勢物語、枕草子、大鏡、新古今和歌集などにも書かれていると云うから昔の観光地?。
 元弘元年(1331)の大地震で二十余町も陸地化したと「太平記」に書かれ、これが鎌倉幕府滅亡の予兆であると噂された所でもある。 

千里浜 南部峠の地蔵さん   熊野古道

 *梅林
   岩代王子から三鍋王子までは道沿にまで梅畑が広がり、開花時は存分に楽しめる。



 三鍋王子
  南部町北道字丹川60                   三鍋王子の地図     鹿島神社
 目標物=R42南部大橋から一つ目の信号・R424分岐200m程東進・大きな銀杏の東方
 駐車=路肩

  南部川をR42の橋を渡りすぐ左折する。川沿いに200m程東進し右側に小さいが標識が出ている所を50m程入ると左側に小高くなっているところが旧跡。
 後鳥羽院は多大な布施を行っていろし、近世でも立派な社殿が建てられいた。その社殿は此処より南に1km程行ったところにある鹿島神社の本殿がそうだ。
  この地はかつては南部荘と言い、鳥羽上皇43歳の時に生まれた娘、頌子親王(五辻斎条院)が高野山金剛峰寺に荘園として寄付し、それを元に今も高野山に残る大会(たいえ)堂が建てられた。

三鍋王子址 三鍋王子の建物(鹿島神社)



 芳養(はや)王子
   田辺市芳養字西松原1029                   芳養王子神社
 目標物=R42号線・芳養川を渡りの芳養交差点右折れすぐの森が大神社
 駐車=鳥居付近に数台止められる

田辺市内の街道は下記のサイトが地図も付いていて参考になるよ
http://www.tanabe-kanko.jp/midokoro/kumanokodo.htm

 三鍋王子からは2つの道がある。
一つは町中を南下し鹿島神社裏を通り椿坂から堺集落、海岸沿いR42にそって芳養に入る道を案内書の多くは採用している。堺の旧道は国道の裏手にあり人家の軒の下を通るような細い道、途中に袖すり坂とかの地名も残っている。
 もう一つは三鍋王子からJR南部駅北で線路を越え、IC近くの変形の大きな4差路を右に取る。灰坂峠を越えて中芳養から県道199を芳養川沿いに南下し大神社へ至る道は古い牟漏御幸道であると日高郡誌に書かれている。この道は海岸の道に比べ峠もあり回り道になる。
 海岸の堺集落に平家の落武者が5月に子供の成長を願って赤い幟を揚げた所、舟から捜索に来た源氏に見つかり殺されたとの伝説があるくらいだから、そのころは陸の孤島状態で街道は通ってなかった事になる。
 大神社所蔵の棟札写しの記録では「天下泰平五穀成就、再興若一王子権現堂、紀州牟呂郡芳養村鎮座」裏面に「正和三年(1314)申寅八月十九日、神主、小川次郎近智」芳養村とは芳養荘下村の意味で、即ち現今の下芳養鎮座を明らかにする事実と「和歌山県聖蹟」に書かれている。

芳養王子からR42に平行した旧道を300m南進すると右に一里塚跡、大きなエノキ?とお地蔵さんの祠が祀られ(車が止められる)ている。そのまま直進し100m程で国道に出る事が出来るが、すごく出にくいので、一里塚の所を左折れして国道に出れば信号ありスムースに出られる。

芳養王子(大神社) 芳養の一里塚    地図



 出立(でだち)王子
   田辺市元町字出立327                      出立王子地図
 目標物=R42号線元町交差点右折れ・会津橋手前お寺が2、3軒ある手前信号左に入り50m左側
 駐車=前に3台分の空き地
   
 王子社はもと元町西郷の御所谷附近にあったといわれている。現在は龍泉寺西側から田辺第三小学校方面に登る坂の途中にある。今も会津川の左岸田辺の城下の人達は、この付近の元町、江川地区を昔からの地区として一目置いている。

 ここからの街道は会津川を渡り田辺の町に入り、北新町(三栖口)で大辺路と中辺路に分かれる事になっている。これは1600年頃田辺城が出来てからの道。捻木峠から清姫が田辺を望むと、この三栖口を安珍が逃げているのが見えたとは、いかにも江戸時代の作り話。
  

出立王子 出立王子 江戸時代の大辺路中辺路分岐

役行者が22歳で熊野詣を行った時の著述の「不思議神変」に「清浄地浜ノ塩ヲ浴ルハ、悪行煩悩ヲ洗浄ス、祓スヘシ」と記しているという 
建仁元年(1201)の御幸記では後鳥羽院に同行した藤原定家が風邪をひき、出立での潮垢離を辞退したところ厳しく叱責され、やむなく潮浴びをした。当王子での「塩垢離」が参詣者にとって重要な儀式であり、この海岸は塩垢離浜、出立浜と呼ばれた。室町時代足利義満の側室が熊野詣でのおり田辺に一泊し潮垢をしたと記録に残っているので1400年頃はまだ潮垢離、水垢離を重要視していたのであろう。
 万葉集九巻に大宝元年(701)持統、文部天皇が紀伊国に幸ませる時の歌に”出立(いでたち)の松原”と歌われたのはこの浜と思われ、熊野詣でが盛んになる以前に既に、「出立」の地名が存在していた。今は埋め立てられ、江川児童公園に潮垢離記念碑が立っている。出立王子入り口より手前200m弱を海の方に右折れ突き当たり、碑は江川児童公園の西隅にある
                               潮垢離浜跡 

潮垢離跡 潮垢離浜跡の地図


高 山 寺                             南方熊楠の墓
  目標物=森に囲まれた小高い山
  駐車=境内に登ると有り
 出立王子から秋津王子へ行く道中に山門がありそこからも上れるが、R42からもいずれも車であがれ、境内は広くよく手入れも行き届いているお寺である。
 市中にあって自然林に囲まれた大きなお寺で、ここの墓地に南方熊楠が眠っている。ここより少し離れているが町中には熊楠邸が近年公開され隣接して「南方熊顕彰館」も出来ている。入館料300円、駐車場はないが前に空き地があるので駐めることが出来る。

熊楠の墓 高山寺多宝塔 庭園




 秋津王子
   田辺市下秋津字安井83                     秋津王子
  目標物=紀伊民報
  駐車=道路
 出立王子から会津川右岸を上り会津橋又はその上の橋を渡る。川幅を見ているとこの付近でやっと会津川を渡河出来そうだから古道もこの付近で渡っていたのか。紀伊民報を回り込んだ200m先の右側小さな水路に蓋をして秋津王子安井宮跡があるが見過ごすような所にある。秋津王子の古い場所は確定できない。熊野への街道は時代によって変遷する。会津川付近の古い遺跡は2m程掘らないと出てこないらしいが、紀ノ川、日高川同様、会津川も洪水の度にたえず街道が変わったろうことが想像できる。
 後世の熊野街道は出立王子から田辺の町に入り、北新町(三栖口)で今も石の道標(安政4年)のある。ここから万呂・三栖方面(中辺路)又へ大辺路へと進んで行った。

電柱の陰で見落としやすい 秋津王子跡 紀伊民報の角の標識  地図

*蟻の熊野詣
 江戸時代中期の辞書「倭訓栞」にも「ありのとわたり、蟻の熊野詣といふのは、中古貴賤参詣一道を往来し、絡繹たゝずして今の伊勢参りの如きよりの諺なるべし」とあるように、熊野詣でに多くの人が行き来したので「蟻の熊野詣」と言われるようになったと云われている。果たしてそうであろうか。天正10年(1582)秀吉が備中高松城を取り囲んだ時の兵の多い表現に、「蟻の熊野詣」の言葉がつかわれているのをみても、それ以前に「蟻の熊野詣」の言葉があったことは確か。だが多くの庶民が熊野詣をしだすのは世の中が落ち着いてくる江戸時代中期、「田辺町大帳」の記録によると正徳六年(1716)六月二四から二九日までに4776人泊まっているから1日平均800人が。「伊勢に七度(ななたび)熊野に三度(さんど)、お多賀さんには月参り」の言葉もある。数字上では[熊野年代記」に享和(1801〜1804) 頃,年間に2万人余りの巡礼者が通ったとにあるのに対し、文政12年(1829年)お陰参りが大流行し500万人の人々が参宮しているのに比べものにならない。また同時代に『北越雪譜』の作者・鈴木牧之は伊勢参りの帰りに熊野路を歩いたとき、「熊野路の 春や寂しき 人通り」と詠んでいる。江戸時代は伊勢と西国三十三カ所をセットで回るついでに熊野に参ったようだから、伊勢道では「蟻の熊野詣」と言われることはあっても紀伊道で「蟻の熊野詣」と言われるのはおかしい。などなど考えあわせると多くの庶民が熊野参りするのを「蟻の熊野詣」と言っているのではなく、平安から鎌倉時代に上皇達数百人が列を作って熊野詣するさまから「蟻の熊野詣」の言葉が生まれてきたように思えてならない。

 
 *熊野巡覧記(寛政六年 1794年) 下秋津村 安井の王子御座を御幸記の秋津王子に当てる。
 *紀伊国名所図会 下秋津村安井にある。以前は秋津荘柳原にあったとする。



  万呂王子
    田辺市上万呂字三光寺前430-1               万呂王子跡地図
  目標物=「熊野橋バス停」道左側の説明板,
  駐車場=説明版の前に一台止められる

 梅畑の中に標柱が立っているが、説明版が離れた新しい道(堤防)沿いに設置されているのでよけいに見つけにくい。
 説明版の所に車を置き、黄色の建物FullHouseの下に、建物の角から数m右側にかろうじて畦を見つけ、梅畑の中を30m進むと電柱、左折れ30mで青い王子址の標注があるだけ。
 御幸記には秋津王子を出てから、山を越へ万呂王子とあるがその山はどこを指すのか分かっていない。先の秋津王子が洪水で変われば自ずとこの万呂王子の位置も変わったことが容易に想像できる。
 少し上の万呂交差点の集落に入る道に頑丈な鉄の扉があるのを見ると、川が直角に曲がっているこの付近は近年までたびたび水害で荒れていたらしい。1000年前を想像すれば芦の河原の中にはたして王子があったのかな〜と思えてしまうが、明治10年8月、須佐神社(旧名 牛頭天王社)に合祀されるまでは、この付近に小さな森があり、王子の面影が残っていたという。
 上皇たちはここから上富田町岩田に向かい富田川(岩田川)で水垢離をし滝尻王子に向かう。熊野詣が廃れる室町以降は、近道である潮見峠が主となる。

 下三栖の一里塚は和歌山より20里に当たるため、紀州藩の二十里外追放ではここが基準だったとか。熊野街道の一里塚は正徳二年(1712年)に整備されている。東海道の一里塚は慶長九年(1604)だから100年余り遅れている事は、1600年代熊野街道は余り重要視されていなかったのかな。

梅畑の中の万呂王子址     100m程はなれた所に説明版


潮見峠越                         潮見峠     捻杉の地図
 車は田辺市三栖の信号のある交差点から東進し上三栖、長尾坂を経れば捻杉の所まで行ける。さらに潮見峠を越えようとすればそこから少し下り馬我野小学校の手前から秀吉紀州攻め古戦場の射森峠を経て、潮見峠の中辺路側の南の登り坂の途中に抜け左折し登っていけば潮見峠に至る。
 上皇達の熊野詣が廃れた鎌倉以降の熊野街道は潮見峠越えになったと書かれているが、1427年の北野殿熊野参詣日記でも富田川(岩田川)で禊ぎをしている。地図上に物差しを当てると富田川を通るのは三角形の二辺を回ることが良くわかる。稲葉根王子へ回る道は、富田川の禊ぎが目的で上皇達が回っただけで、まさしく禊ぎの道と云って良い。
 三栖から潮見峠へ途中の長尾坂の熊野街道は最近修覆されて広い石畳の道が出来ている。それを上がればミズガイドを経て清姫のねじ木、弘法柳など伝説の故地を巡りつつ潮見峠へはこころよい山道が続く。近年まで使われていた往還路だけに茶屋跡なども一目でそれとわかるたたずまいがのこっている。
 この道を安珍を追って清姫が道成寺まで62kを駆け抜けて行った。道成寺縁起絵巻では清姫を避けて12、3町過ぎたところで安珍が逃げたことを知って追いかけた。、私がこの道を2日に分けて16時間半もかかったのから考えると、清姫は高橋尚子Qちゃん級で今なら女子マラソンで人気者になっていたかもネ。
 法華験記では逃げたことを3日後に知る、それから追っかけ道成寺で追いつかれているのは、安珍さんは本気で逃げたのかな?(^O^)

         潮見峠         長尾坂の石畳 道幅は三尺にも足りない
中辺路町真砂に小さなお堂と板碑と五輪塔などがある。
 300m程上流からここに移しただというが、この位置は富田川の淵の上にあるので清姫には似つかわしい場所だ。
清姫の墓
長尾坂は昭和初期まで使われていた道だが、中辺路や本宮の人工林の杉や檜林より、思いのほかあちこちに古道の雰囲気が残っている。   
白が似合う綺麗な女性にドキッ
清姫の捻木杉
 この木に登って田辺の北新町(三栖口)を逃げてゆく安珍を見つけ怒りで木が捻れたとの伝説だが、道成寺縁起には真砂から切目王子の間の地名は出てこない。

 中辺路町真砂の清姫の墓から塩見峠を越え田辺まで、ウオーキングに適したお勧めコース。若者なら朝早く出発すれば道成寺まで歩くのも無理ではない。

 潮見峠からの入り道に標識がないので分かりにくいが、石の標識のある右の方を探せば見つかります。

 潮見峠から南に下ると清姫のお墓の所に出る、熊野街道は東に下り栗須川手前の鍛冶屋川に出る。覗橋たもとに一里塚の跡があり、ここから富田川に出て左岸に渡り高原熊野神社へ登って行くのが鎌倉以降の熊野街道であると云うのが通説。元和3年(1120)に書かれた今昔物語「紀伊國の道成寺の僧、法華を写して蛇を救ひたる語」に清姫が”・・・・既に他の道より逃げて過ぎにけりと思ふに、大きにいかりて・・・・”と出てくるので、平安時代には潮見峠道が出来ていた事が分かる。 

 潮見峠越のウオーキングマップ
清姫の淵   地図 覗橋(のぞきばし)   地図


 ミスズ王子
   田辺市下三栖字岩屋谷1444-2                ミスズ王子地図
 目標物=万呂交差点の次の信号右折れ(標識あり)・峠の頂上を右に登る
 駐車=道は狭いが車は石碑の前まで行ける。

 石碑の左側の円柱状石には王子権現と彫られているので以前の碑か?。左側の道標には左くまのみち、右きみいでらとある。
 三栖の地名は藤原為房の英保元年(1081年)10月に熊のに参詣した際、三栖荘で宿泊したと日記「大御記」にあるという。
 王子の名は藤原定家の日記にでてくるのが最初で、「ミス山王子」と書かれている。室町時代には、すでに、三栖から塩見坂(潮見坂)越えの道が開かれていた。道しるべでは「ミスズ王子」などとなっている所が多い。

三栖王子址


 王子址の上の山は、自然林の中に大きな岩が幾重にも重なり石仏等があって古来の熊野の山を想像するのに良い公園?ロマンチストにお勧めポイント。
 

 大きな岩がゴロゴロ異様な雰囲気


 八上王子
  上富田町字中島138                          八上王子の地図
 目標物=新岡トンネルを下り岡集落に入る所の右側(標識有り)
 駐車=駐車場あり

 三栖王子跡から、元の信号まで戻り登るように南進、途中トンネルを抜け300mほど下れば右に標識がある。歩けば古道らしい山道。岡道と呼ばれて梅林の中を途中道が分岐し八上王子へは、古道が新岡坂トンネルの入り口に出てくる。
 西行法師
  「待ちきつる 八上の桜 咲きにけり あらく おろすな三栖の山風」
 杜の外見はそうでもないが、大きな杉のある鳥居から境内は入ると思いの他静かで落ち着く。
 県道35号線を次の岩田王子への途中、右の田圃の中に小さいがこんもりとした森が見えるのが田中神社。ここのオカフジは南方熊楠が命名したもの。

八上王子神社 西行の歌碑      田中神社の白藤   地図



 稲葉根王子
    上富田町岩田字王子谷3108                 稲葉根王子の地図
 目標物=R311三叉路右折れ100m右側・左に水垢離場石碑
 駐車=前の河川敷(コンクリート)や水垢離場石碑の前

 岩田交差点でR311左折れしトンネルを出ると大きな看板が出ているので間違うことはない。古道はこのトンネルの上を越している。
 まずまずの広さ、入り口に小さな川が流れ後に山を控えて杜もよく、五体王子の貫禄十分の王子だ。

稲葉根王子 水垢離場石碑


 ここから上流の富田川(岩田川)は熊野詣の重要な垢離場(こりば)で、時には20回近くも川を渡って禊ぎをしたという。熊野詣で初めて出会う熊野の霊域より流れ出る川、道中で最も神聖視された川であった。平家物語に「此の川の流を一度も渡る者は、悪業煩悩無始の罪障消なる物をと、憑うど思い召す」と書かれているように、この川に身を清めれば、過去もろもろの悪行煩悩が消えると、強く信じられ上皇はじめ随従の者達は熊野の霊域の入り口滝尻王子までの川を何度も何度もずぶ濡れになって岩田川を徒渉し身を浄めた。本宮大社に音無川を渡って濡れたまま詣でるのと比較して、熊野の神域に入る前の岩田川の禊ぎは相当に重要視していたと思われる。
 水垢離跡の碑の傍になぜか歌手の坂本冬美の記念植樹がある???。

岩田川(富田川)



  一ノ瀬王子
   上富田町小山1592                         一ノ瀬王子地図
 目標物=R311より市ノ瀬橋を渡り左折、道なりに500m程・右手上に大きな楠
 駐車=「小山町内会館」前

 別名市ノ瀬王子とも清水王子とも呼ばれ、稲葉根王子から2k余り上った富田川左岸街道右寄りの奥まったところ大きな楠が目印だ。市ノ瀬橋から道はだんだんと狭くなる。もはやダメかと思うようになった頃、王子址への登り口があるが、そのまま進むとすぐ広くなり右に登るようにして王子社裏の「小山町内会館」奥から裏に入っていける。。
 一ノ瀬とは熊野に入るためのみそぎをする最初の川瀬のこと、後鳥羽院の御幸記にも記されている。ここは元やぶのなかにあることから、薮中王子ともよばれ、昭和60年代の写真を見ても小山町内会館の敷地には竹藪が写っている。
 ここからさらに二の瀬、三の瀬と垢離を重ねた。今でも清流の富田川であるが、原始林から流れ出しいた当時は想像できないくらい澄み切っていたことであろう。
車は鮎川王子へは川沿いの山にへばりつくような狭い道を走り加茂橋を右岸に渡りR311に戻る。

増水の富田川 一ノ瀬王子



  鮎川王子
    大塔村下附659                    鮎川王子   住吉神社の地図
  目標物=鮎川新橋右岸・鮎川バス停
  駐車=駐車場又は道路脇

 鮎川王子はR311号線のバス停に並んで碑がある。御幸記にはアイカ王子、江戸時代の熊野巡覧記には相賀王子となっている。
 碑の後ろの王子山(権現山と呼ばれている)、バス停裏の階段を少し登ったところに住吉神社第3殿となって権現神社に祀られているが、これは対岸住吉神社に合祀された鮎川王子の遙拝所であると案内書にある。旧の鮎川王子社は、明治22年の水害までは川岸が張り出し、王子田と呼ばれる水田があり山際に王子社があった、災害の後地形が変わり、さらに近年の道路拡幅などで社地が削られ、碑の建っているところは境内の一部。
 合祀されている住吉神社へは鮎川新橋を渡り左折、内之井川大官橋を渡る。駐車場は鳥居の前を回り込むように回る。大きなオガタマノキ、シイ、クロガネモチ、ホルトノキ、クスノキなど社叢全体に照葉樹林が茂って天然記念物となっている。かつて熊野の熊野をほうふつとさせてくれる数少ない杜である。宝物館にある摩利支天は戦の守り神として信仰されてきた、イノシシに乗った可愛い天女の姿をしていると云う。 

流れ橋
 鮎川新橋のすぐ上流に幅1.2m、長さ88mの手すりのない流れ橋が見える。下流の稲葉根王子水垢離場近くにも同じような橋がある。今は橋板だけが洪水の時に流れる(ワイヤーで繋いでいるので外れるだけで回収できる)が昭和30年代までは橋脚も流れる構造になっていたという。今でも鮎川地区の3〜4軒で組を作り「橋番」を作って、流されれば再架橋し橋番を次の組みにまわしてゆく。
 流れ橋は岡山県に多くの残っている。また木津川の上津屋橋356mもあり有名である。

国道横の鮎川王子 宇立橋は流れ橋だ 住吉神社の森


  滝尻王子
   中辺路町栗須川字平原859                  滝尻王子神社の地図
  目標物=R311から滝尻橋の向こうに古道館と左に杜が見える
  駐車=王子社を少し通り過ぎた右、対岸

 中辺路町の滝尻王子から小広峠までは下記のサイトが詳しいよ。
  http://www.nakahechi.jp/index.html

鮎川王子から程なく山が狭まり熊野のイメージが強くなり、国道の2、3トンネルを抜け清姫茶屋を左対岸に見て進むと、石船川と富田川が合流する所、滝尻橋のたもとにある。真砂から国道は右岸を走っているが、古道は鮎川王子の少し上の宇立ののごし橋付近から対岸の向越に渡り滝尻王子まで左岸を通っていた。
 滝尻王子から熊野の神々が住む隠国(こもりく)とされ、いわば現世と黄泉の国との中継地点だったわけだ。熊野参りをする人々は、ここの石船川で身を清めてから王子社に参拝し、また、社前では里神楽や歌会が数多く開かれた。現在も、大木が生い茂る王子社は熊野霊域への入口としてふさわしい雰囲気を漂わせている。明治22年の水害までは左岸、今は石船川が流れている付近に広い土地があって王子社、民家もあった。
 次のネズ王子へは昔の道は余りに険しかったので後年社の裏からに付け替えられたのだが今でもすごい急坂である。中右記によれば石船川の一町ほど上流から登ったようだ。
 ここからは車は大きく迂回しなければならない。歩いて熊野古道を味わってみたいと思われる人は、近露王子まで車の回送をしてくれる(4千円)
 

滝尻王子社 熊野詣では色物は着なかったはずだが・・・・

 熊野古道館は入場無料、中辺路の古道関係の出土品や中右記、熊野御幸記、熊野懐紙などのコピーが展示され、またビデオなどが上映されていている。

熊野御幸記  熊野懐紙 中右記

 

ここからは世界遺産ルートに登録されている熊野古道
この間は歩こふとすれば距離と時間、高低差があり人家は高原部落のみ、余裕を持って歩こう。
  約 14km  6時間
・滝尻王子→(0.4km;15分)→ネズ王子→(3.3km;1時間30分)→高原熊野神社→(1.9km;1時間)→大門王子→(1.5km;40分)→十丈王子→(4.3km;1時間35分)→大坂本王子→(2.9km;35分)→近露王子

 *この間を有効に歩くとすれば、十丈王子から滝尻王子、十丈王子から近露王子と分けて歩けば、速歩程度で滝尻まで2時間弱、近露までは1時間半、合計3時間半で歩けます。