滝尻王子〜本宮大社

 

           
 滝尻王子から本宮大社までが一般に熊野古道と言われていてウオーキングの人達に人気がある。この間はスポット的に車で行くしかない。歩きで古道に浸っている人に迷惑にならないよう気をつけたいものです。
 注意: ここから本宮までは携帯電話のつながる所は稀です。

和歌山の街道マップ  http://kanko.wiwi.co.jp/walk/index.html

   滝尻王子〜大坂本王子  大坂本王子〜継桜王子  継桜王子〜猪鼻王子  猪鼻王子〜本宮   赤木越


 滝尻王子                       滝尻王子神社
 
 文献上滝尻宮と初めて現れるのは「いほぬし」だが、創始は奈良朝時代の八世紀末から九世紀といわれている。
 滝尻王子社の鳥居をくぐりすぐ左側、鎌倉時代の宝蔵印塔と笠塔婆の町石塔婆が小さな盛山に建っている。町石塔婆は大門王子にも残っているのでこの町石塔婆はネズ王子の辺に建てられていたものと云われている。「景山春樹著、比叡山と高野山」によれば天治元年(1124)「鳥羽天皇高野御幸記」に、「行程三十六町、毎町立卒塔婆、而其数三十七本、尋子細金剛界三十七尊種字」(行程三十六町、毎町卒塔婆を立つ、而して其の数37本、子細を尋ぬるに金剛界三十七尊種字を書くに依る)と記されている。また「紀伊国名所図会、巻4、慈尊院の頃」に文永2年(1265)元冦の役祈念の為、亀山法皇は高野山に参詣、「かかる尊き道をすすみて登れることなればとかく、帝王既に当所の下乗の檄より、玉の御輿を下りさせ給ひ、町ごとに御持念拝礼ありて、玉歩をすすめさせ給へりとぞ」と法皇も御輿を降りて、徒歩にて町石ごとに拝礼をされ、高野山に登られたと記されている。九十九王子と高野町石は似ているから同じようにような感覚で見て間違いないのではないか。

宝蔵印塔と笠塔婆 古道は王子の裏から急坂 檜で作られた皆地笠

 下記のサイトに詳しく書かれているヨ。
   http://wiwi.co.jp/vwakayama/kankou/prefg/060200/kankou/kataribe/nakahe_k.html#01


 ネズ王子                               不寝王子
 目標物=滝尻王子
 駐車=車では行けない

 ネズ王子の名称は古い記録にはなく、九十九王子にも数えられないことが多い。古道脇には「乳岩」「胎内くぐり」と大きな岩が点在する。
 滝尻王子からの道はあまりに急なため、ちょっとした休憩所的に建てた王子との説もある。寛政頃(1790頃)社殿が設けられたと、栗須川の庄屋の残した書上げがある。
 ネズ王子は車で近くまで行くことはかなわない。滝尻王子の裏から急坂を500m(15分)ほど登るか、または中辺路町役場手前500m、R311から「古道が丘」の標識から川を渡り左に道を進め高度を上げていくと尾根に出て古道と交差する。ここから滝尻王子まで歩けば約1時間、後半の下りは相当にきつい。
 次の高原熊野神社まで尾根の車道は1km余り古道とほぼ平行している。

ネズ王子跡 乳岩        木の根あらわな急坂の古道



高原熊野神社
 目標物=高原集落                            高原熊野神社地図
 駐車場=「高原霧の里(たかはらきりのさと)駐車場」15台

 高原熊野神社は高原地区の産土神で、熊野古道沿いにあり、不寝王子と大門王子との間に位置している。高原王子と呼ばれることもあるが、熊野九十九王子のうちには入れられていない。
 この神社に伝わる懸仏(かけぼとけ)には応永十年(1403)の銘があり、応永元年(1394)若王子を熊野本宮から勧請したことが記されてる。春日造り室町時代の建築様式で、中辺路に現存する最古の神社建築である。1000年以上と推定される数本の楠に囲まれた極彩色の鮮やかな社殿は数年前に改修されたものだ。
 ここも熊楠により森と共に合祀から救われた神社である。
 ここの駐車場にはきれいな無料休憩所、トイレが完備されている。 

一番高い所の家はイーデスハンソン宅 高原熊野神社 昭和10年代の高原

 


 大門王子                                   大門王子
   中辺路町高原707-2
 目標物=
 駐車場=車では行けない

 ここも車では行けないので高原か次の十丈王子から歩かねばならない。どちらから歩いても30分あまり。
 標高は500m、ここに熊野本宮の鳥居があった所というから要所であったと思えるが、古い参詣記には記述がなく御幸期の終わり頃の王子ではないかといわれている。
 今は社殿も新しくなり、後ろに鎌倉時代のものとされる笠塔婆が残っている。平安時代からの休息地「水飲」もこの付近であったらしい。

大門王子 笠塔婆と王子碑 右は凍った高原池

 「ヤッホーポイント
 中辺路の古道を歩いていると、時々「ヤッホーポイント」と手書きの看板が目に付く。これは紀伊山地を四千ヶ所以上ひたすら「ヤッホー」と叫んで回り、やまびこの良いスポットを自然教室講師の「ヤッホーおじさん」こと貴瀬誠さんが探し当てたところだ。
 貴瀬さんによると紀伊山地で完全なヤッホーがかえってくるスポットは十ヶ所ほどしかないとのこと。よいやまびこのためには、向かいの山までは300m程、向かいの山は凸凹がなく、空気が乾いて鳥やセミがうるさくない時期だとか。ヤッホーを叫ぶのは、2mも違えば良いやまびこが帰ってこないのでピンポイントで叫んでほしいとのこと。「ヤッホーポイント」を見かけたら、童心に返って是非ためして下さい。なお中辺路のやまびこの特徴は「ヤッホーー」でなく短く「ヤッホッ」と短く叫ぶことだそうだ。


 十丈王子
  
 中辺路町大内川1307                      十丈王子址地図
 目標物=廃村跡
 駐車場=登り口の屋敷跡に3台

 九十九王子の中では最も古い時代からあり、重照(しげてる)王子とも重點王子ともいう。車だと高原熊野神社の前の道を水平に東に向かうとすぐに狭く荒れた廃道になる(昭和20年頃まで県道であった)。左から登ってきた舗装道路と合流するまでの1kmは慎重に運転すれば通れないことはない。ここから約2kは余り良いとは言えないが地道の林道。左に灯籠があり石の祠が崩れたままの庚申さんが祀られている、その100m程手前右に石垣を積み明らかに以前は屋敷跡であったと思われるところに車を置き200mほど登ると尾根筋に出て十丈王子跡に着く。
 十丈部落は江戸時代には人家があったが、全戸移住してしまい、今は耕地跡や屋敷跡を残すのみ
 十丈王子趾には休憩所、トイレ、非常電話がある。

旧十丈部落の庚申さん 十丈王子 尾根を通る古道

 十丈王子の下から次の大坂本王子へは逢阪峠の林道に地図上では繋がっているように描かれている(旧県道)が、林道合流点手前500m程の所で崖崩れで通れない。
 車は十丈王子の登り口から引き返し途中から舗装道となり2.5km下るとバス停「皆の川口」の100m下流に出る。R311を2km東進し左の「福定」の標識にしたがい旧国道を登っていく。まもなく「福定の大銀杏」が道の横にあり、さらにと4kmで逢坂隧道。隧道を抜けてすぐ右に熊野古道の看板があり谷底に大坂本王子が見える。
 車で熊野古道の逢阪峠に行くには、隧道よりさらに近露側に1km旧国道を下り、左に地道の林道(旧県道)を3k登ると逢坂峠で古道と交わる。ここから右の掘り割り状の道は、先の十丈王子からの崖崩れで通れない旧県道に繋がっている。
 この林道は昭和22年まで県道として乗り合いバスが通っていて峠には昭和25年頃まで茶屋があったと云う、地元の人に聞いた話では、「馬車道」だったといっていた。
 林道で逢阪峠まで登れば、運転手は犠牲になってもらい、他の人は逢阪峠より大坂本王子址又は牛馬童子とか近露王子まで歩いて御幸時代の古道を楽しむ事をお勧めします。
 *地図上では逢坂トンネル(国道)、逢坂隧道(旧国道)と林道がトンネルの中でつながっているように描かれているが、林道は標高600m程の所、旧国道の逢坂隧道は標高400m、国道の逢坂トンネルは標高200m程の所を通っています。
 

福定の大銀杏(地図) 冬の大銀杏     逢坂峠、茶屋跡の碑



 大坂本王子
   中辺路町近露                            大坂本王子地図
 目標物=逢阪隧道東口
 駐車場=旧国道  

 車は旧国道のトンネルの出口の50m程右に標識や案内地図板がある。ここから谷をのぞくと石積みされた社地の跡が杉林の中にみえる。
  十丈王子より歩くと悪四郎山山腹を巻き、上多和(うわだわ)茶屋跡、逢坂峠を経る、この間4.3k、1時間30分弱
 逢坂峠は、急峻な坂道であるため、古くは大坂の名がある。

        大坂本王子址      古道のそばの猪垣?


※案内板より
 「大坂(相坂)の名は古く、永禄元年(1081年)熊野参詣の「為房卿記」に、大坂の草庵に着き泊まって猿の声を耳にした、と記している。江戸中期の調査記に、右坂下り口より一八間入込、杉雑木森、社方四尺とあって、元禄の頃には社殿もあったという」



 近露王子
   中辺路町近露字北野906                      近露王子   牛馬童子地図
 目標物=R311の信号のある交差点を左折500m突き当たり
 駐車=横にあるのは回送車専用なので、その隣の農協前に置ける  

 熊野古道のシンボル的存在「牛馬童子」は、旧国道を下っていくと杉林越しに右下に新しい国道が見えて来ると(逢坂隧道より約2km)、古道と交わっている。ここに牛馬童子への案内があるが見過ごして、更に500m程進むと左に登る案内板がある。道の横に車を置いて100m弱と近い。牛馬童子像は明治22年に、この付近に住んでいた人が残したものだという説と、江戸末期のものだと言う説があるが、いずれにしても思いのほか新しいのだ。
牛馬童子のある箸折峠から近露王子までの車道はすごく大回りしているので、車と歩くのでは時間的にあまり変わらない。

*国道311号に「道の駅熊野古道中辺路」があり牛馬童子への大きな案内板があるが、ここからは歩けば約600mで結構遠い。車を使って熊野九十九王子を回る横着者(ゴメン)は4.2kmほどの回り道になるが、近露から旧国道を走られることをお勧めする。

牛馬童子 熊野古道 箸折峠から近露


 ここの王子は早くに出来た王子の一つで、参詣者はここの日置川で水垢離をするのが習わしだったようだ。鎌倉末期の熊野縁起には准五体王子としている。明治末期の神社合祀まで近露王子には鞘堂がワラ葺きさのこぎれいな社殿があり上宮と呼ばれていたという。建仁元年の定家が同行した頃、川は近露王子と今は駐車場やトイレのある広場の間を流れていたと「和歌山縣聖蹟」に想像されている。
 南方熊楠はこの王子の合祀と杉の木の伐採に反対したが、結局は「近野神社」に合祀され、十数本の杉の巨木も伐採されて現在森をかたち作っているのは細い杉ばかりだ。碑は大本教の出口王仁三郎の書。
 次の比曽原王子へは近露の集落の中はすごく狭い所もあるが思い切って乗り切ると後は旧国道だから走りやすい。途中で「一里塚バス停」に熊野古道の目に付く標識があり左折の誘惑にかられるが、これは歩く為の古道案内なので無視して直進。

近露王子 近露風景 石畳の古道


 比曽原王子                             比曽原王子跡地図
  
 中辺路町野中字比曽原1143
 目標物=峠を越え200m程行った左側杉林の中。
 駐車場=ナシ・手前の道の横に止める

 王子跡の碑は、国道の左、杉の木の下にある。歩けば近露王子から約1時間弱、2.4km。
 道路拡張などで今では狭く斜面にへばりついていて休憩や祈りが出きる広さではないが、昭和初期までは立派な王子林があり、境内は106坪あり2段になっていた。

         比曾原王子跡


 中辺路町は熊野古道が車道になっている所は砂利状の舗装にしている。車道と歩く古道と交差している所は切石状の舗装をしているので見つけやすい。また間違いやすいところは「ここは古道でありません」の標識がありすごく親切だ。
 
「紀伊続風土記」
 「比曽原王子碑 村の西小名比曽原にあり、御幸記に見えたり、境内に手枕松といふ名木ありしが枯れしと云ふ」



 継桜王子                              継桜王子地図
 
 中辺路町野中字上道中591
 目標物=とがの木茶屋
 駐車場=茶屋を通り過ぎた「継桜」の前・トイレ手前にも駐車場

 「野中の一方杉」の方が名が知られている。
 比曽原王子からの車道を進んでいくと、左に上がるように折れすぐ左に一里塚跡の石柱、そのまま進むと「とがの木茶屋」前に着く。継桜の名前の由来は、根元は檜でその上に桜が生えているという意味のことが、中右記に書かれてある。「和歌山縣聖蹟」には別の考えを揚げている。
 幹囲8m近いものもある境内の杉、南方熊楠と氏子が一緒になって伐採をかろうじて食い止めたのは残っている宮前の9本。「乱伐し終わりその人々さる跡は戦争後のごとく村に木もなく、ただただ荒れ果つるのみ有之」と熊楠は書き残している。今残っている杉だけでもこのお宮は神々しく見えるのに、40数本あった伐採前はいかほどであったことであろう。一方杉保存を熊楠は県知事宛に出した嘆願書の中に「エコロジー」と言う言葉を使っている。エコロジーと云う言葉を初めて使った日本人じゃないだろうか。
 ここのご神体は「イチマさん」だと(イチマとは市松人形の方言)聞けば、なんか有り難みがなくなってしまうが、神社前の一方杉がそれをカバーしてもあまりある。
 
*とがの木茶屋より歩いて少し下ると、日本名水百選に選ばれている「野中の清水」がある。

継桜王子 継桜王子社殿 階段横の杉の洞 野中の清水

  上地集会場の横「標識35熊野古道」に「阿倍野清明の腰掛け石」がある。
平安時代の皇族や貴族は陰陽師の占いににより日常の行動の指針を得ていて、熊野参詣も例に漏れず、陰陽師により参詣の日程を決定していたという。時代として少し差があるが、阿倍野王子の境外末社「阿倍野清明神社」、篠田王子は陰陽師を祀る「聖神社」「信太の森神社」、又那智の滝で阿倍野清明が修行したと伝えられているので、熊野古道沿いに「腰掛け石」の伝説が残されたのだろうか。


 中ノ河王子                               中河王子址
 
 中辺路町野中字字高尾下2177
 目標物=道の左にイヤでも目に付く
 駐車場=標識の所のカーブを回ると道の横に止められる。

旧国道の案内板の有るところから、山道を100m程登る(案内板に200mと書かれている)と、参詣道がここを通っていたことがわかる細い道、少し広くなっているところに碑が建っている。仮屋も設けられたと書いているが、30坪程でそれほど広くはない。
 熊野参詣道では比較的早くから設けられた王子で、中右記に「仲野川王子に参る」とあり、後鳥羽院御幸記でも「中の河」、修明門院御幸記に「中川」と出ている。いつ頃か社殿を失い和歌山藩により王子碑が立てられている。

       中河王子上り口


  小広王子                               小広王子址
   中辺路町野中字字高尾下 
 目標物=小広王子バス停・右に6角形3階建の黒いログハウス
 駐車場=ログハウス前の広場

 車道の小広峠の標識から少し奥まったところに上部の破損した緑泥片岩の小広王子碑が建てられているが目に付きにくい。峠は車道を造るときに切り通しになっていて、もとはもう少し高い所にあったようだ。
 この峠は”吼比狼峠”とも書く。昔は夜は狼達が吼えたて、昭和の初め頃までは昼なお暗く頭上から蛭が落ちてき来るような峠だったという。
歩きではここから発心門王子までの11km(4時間)は人家もなく大変なところだが、車も道を大回りするので熊野古道一番の難所?といえる。
1723年紀州藩により建てられた碑                小広峠


  熊瀬川王子                             熊瀬川王子址

 目標物=トイレを過ぎて左に降りる・「熊瀬川王子」の標識が無いので注意
 駐車場=土橋の所に広場があり回転できる

 小広峠を下ったきれいなトイレのあるところから地道だが谷川の方に100m降りていく。車はここに置き、土橋を渡り草鞋峠の急な登りにかかって200m程で熊瀬川王子碑がある。
 熊瀬川王子は、嘉暦元年(1326年)に仁和寺所蔵の「熊野縁起」に記録されているらしい。
いっぽう紀伊風土記には、「小名熊瀬河は小広峠にあり」としているから同じものかとも思う。
 草鞋峠、女(め)坂、男(お)坂と続く。今はほとんどが杉林となっているが、昔は木々の上から山蛭が降るように襲いかかり足下からは身をくねらせた山ミミズほどもある蛭がはい上がった。夏は地獄と恐れられた場所で蛭降峠百八丁と云われた。
 小広峠は、古道の”小広峠”とR311線の”小広峠”があるのでうっかりすると勘違いするので注意が必要。

   熊瀬川王子址

 「熊野巡覧記
 誠に今も樹木生い繁り、日の光さえ希なり。道は常に湿りて足をはこぶにものうし。西の坂を下るやいなや、また東の坂にのぼる。朝の霧谷を埋めては木樵も道を失ひ、夕のけぶり峰を蓋ふては旅人の思ひをさまし、猿の嘯に腸を断とや。 



  岩神王子                                 岩神王子址
  
 中辺路町道湯川字岩神222
 目標物=R311より分岐・トンネルを出て100m標識あり・右に上り頂上
 駐車=登り口、非常電話の横

 国道311の「熊野古道1km」の標識を左に、荒れた地道を谷川に沿って1km走ると女坂と男坂のあいだの「仲人茶屋」跡だ。

      雨の流れる古道 仲人茶屋跡


そのまま蛇形地蔵の標識に従って3km程の上り、トンネルを抜けると熊野古道の標識がある。この辺は携帯電話も圏外なので十分注意して走らねばならない。万が一の時はこの登り口の非常電話は消防につながっているとのことで使わしてもらえるようだ。一時ドコモが「熊野古道は携帯が通じます」と云うようなCMを流していましたが誇大広告ウソですよ〜〜。
 此処に車を置いて200m余り登った峠の頂上が岩神王子。王子社跡は道の少し高い所、十坪あるかなしかの平坦部にあった。
 歩けば熊瀬川王子から草鞋峠を越へ女坂を下って栃の川を渡り、男坂を登った岩神峠頂上にある。比較的早く設けられた王子のようで中右記(ちゅうゆうき)の天仁2年(1109)日記に藤原宗忠は夜の白むころこの王子に参り、社辺にいた盲人に食料を与えたと見える。江戸中期まで茅葺きの社があったが、寛政の頃には扉破損、天保になると跡形さえなくなっている。

        岩神王子の碑                  峠の古道標識



  湯川王子                                       湯川王子の地図
    中辺路町道湯川字王地谷20
  目標物=岩神峠の非常電話の所から約3km・途中の分岐を鋭角に左折・蛇形地蔵の標識
  駐車場=蛇形地蔵の降り口の林道脇

 さらに蛇形地蔵の標識に従って下って行く、途中で鋭角に左折するとまもなく蛇形地蔵の降り口の看板がある。蛇形地蔵降り口までR311の分岐に5kmと書かれていたが6.3kmあった。さらに林道を200m程先に行ったところで古道の標識があり岩神峠からの道と交わるのであるが、湯川王子へは蛇形地蔵の標識より歩くと200m余りで蛇形地蔵、さらに橋を渡り200mで五体王子に継いで重要視された王子のひとつと言われた湯川王子だ。
 大正末頃まで全国でも珍しい就学免除地であったほど不便な所、今でも車で訪ねる人にはとんでもないところである。
 本宮側の三越峠からは800mで、20分ほどの距離だが高低差があり歩くのは苦しい。平成4年に皇太子が行幸したむねの石柱があるので庶民は苦しいとか言ってられないかな。

 この王子も元は川向かいに在り大水の際は参れなくなるので、天文18年(1549)湯川太郎直光が現在地に造営し寄進した。道湯川の集落は昭和31年まで御坊市の亀山城主(小松原城)、湯川直春の支族らが住んでいたが廃村になってしまい、今でも屋敷や広い耕地後が杉林となって残っている。
 

湯川王子 蛇形地蔵



三越(みこし)峠                                      三越峠の地図

 目標物=林道脇の三越し峠関所跡
 駐車=広場あり

 湯川王子から次に進むには、R311・R168を回り本宮町の三里地区から入らねばならない。歩けば1kmほどのところを車だと30km余りも大回りしなければならないので笑ってしまう。尚、R311の渡瀬トンネル出口 から左折れし番外?の湯峰王子に寄って本宮に出るほうが、無駄が省ける。
 本宮大社前のR168号線を十津川に向けて約4k、三里中学校前で左に登る「発心門」の標識に従いって約5kmで発心門。さらに龍神本宮林道を3kmで口熊野と奥熊野の境である三越峠関所跡が左にある。熊野古道はここから急坂を猪鼻王子に向けて下っていく。林道をそのまま三越峠関所跡から進むと思いのほか走りやすく龍神温泉に通じている。(冬12月1日から3月31日まで通行止め、乗り入れても一切責任は負いませんとの標識が発心門の入り口にあります)

三越峠

 注意: この付近は山頂でも携帯はつながりません。

赤木越え                                  
  目標物=猪鼻王子近くの船玉神社
  目標物=湯の峰温泉、一遍上人爪書石

 湯の峯から猪鼻王子近くへ超す赤木越の道は江戸時代に出来たもので甚だ狭く、尾根筋の道で水もない。ただ本宮まわりより一里半(6km)も近く、後生の西国参りの人は主にこちらを利用した。このルートに車で近づける林道はないので歩くより方法はない。船玉神社から歩く場合は柿原茶屋で直進すると本宮方面に向かってしまうので気を付けねばならない。
 赤木越の案内図だと三越峠からいったん船玉神社の所まで下り、再度急坂を登らねばならないが、元は三越峠から船玉神社から500mほどの地点に直接つながっていたが、今は途中で道が崩れ通行不可。国土地理院地図参照 

鍋割り地蔵 柿原茶屋跡の無縁墓 尾根伝いの道 湯の峰の登り口



  猪鼻(いのはな)王子                             猪鼻王子
    本宮町三越字猪鼻1811
  目標物=発心門王子より林道を下る?
  駐車=林道脇

 三越峠からは発心門王子まで戻り、直ぐ前から林道を下っていくと途中から地道になる。谷川を渡る所で道は分かれ右に取り100m程、左に標識があるのでそこより歩いて下る。50m程林道を進んでカーブを曲がりきったところから降りても良い。
 定家は「今日之深山樹木、多有苺苔、懸其枝如藤枝遠見偏似春柳(今日の道は深山にして樹木多く、苔ありて、それが枝に懸かる藤枝の如し、遠くより見ればひとえに春の柳に似たり)」と書き記している。
 よほど山奥か、鬱蒼とした樹林でなければ見られない木の枝から垂れ下がる苔なので、、熊野御幸は原生林の中を歩いて行ったのであろうことがうかがい知れる。

猪鼻王子 船玉神社 芝生広場にある川船

 それより400m谷川沿いに進む船玉神社があり、その奥にキャンプ場の芝生広場があり赤木越分岐の所だ。ここから三越峠に向かえるが車は橋を渡った所までだ。
 三越峠と猪鼻王子の中間の集落(道ノ川)跡まで龍神本宮林道から車の通れる道が下ってきているが、05年1月には途中で通行止めになっていた。
 船玉神社近くから分かれている赤木越の道は、奉幣や垢離などしない近世の西国参りなどの庶民は、湯の峯、那智への近道として赤木越を通った。



  発心門王子                                 発心門王子
    本宮町三越字上久保1652
  目標物=林道脇なのでわかりやすい。
  駐車場=道端
 
 道の横なので直ぐ分かる。社殿の右に大きなイチイカシの木がある。本宮大社の神が天下ったのがこのイチイカシの何倍も大きな木だったのだろうか。
 社殿の裏の低くなった段が、定家が歌を書き尼僧にイヤな顔をされた南無房宅跡、その奥にNHKの朝の連続テレビ小説「ほんまもん」でロケをした杉の「山太郎」の大木がある。社殿と林道を挟んで少し広くなっている所は、地元では「御所の趾」とか「御殿の趾」と呼ばれているところ。名前の由来の発心門趾は「紀伊続風土記」に”鳥居は柱間七尺発心門王子の南往還にあり、是今の発心門なり、夫より北に折るヽ事一町許に二王堂といふ地あり、是古の発心門の跡といひ傳ふ”とあり、此の地は林道から右手に100mほど登った所という。
 かつては発心門と呼ばれる大鳥居があり、本宮の聖域の入り口とされ五体王子の一つだ。発心とは「発菩提心」の意味で、仏道に入り仏智を証する志をたてることからきている。明治末期の神社合祀後、社叢の木はほぼ切り払われ、王子神社遺址の碑が立つだけとなっていたが、近年整備して綺麗な社殿が建てられた。

発心門王子 南無房宅址

 発心門から300m、「ささゆり」の看板を右折れすると直ぐ綺麗なトイレがある、集落の中を抜けて元の広い道に出る。300m程で右折れ(標識がある)して山の中を進むと水呑王子址。



  水呑王子                                          水呑王子
     本宮町三越字大横手1416-1
  目標物=
  駐車=学校を過ぎた左に2台
 人家のない所に分校といえども小学校があるのかと不安になって来る頃にぱっと広くなり水呑分校跡だ。
 元三里小学校水呑分校(昭和48年廃校)の入り口に水呑王子跡の碑がある。この王子名は古くいくつかの記録では、「内水飲」となっている。中右記の天仁2年(1109年)の参詣記に、「内水飲王子 新王子」と記載がある。中辺路町高原の熊野道に参詣人の宿になっていた「水飲」という場所と区別する為、本宮に近いので「内水飲」と呼んだといわれている。

左の杉の下が王子址 水呑王子



  伏拝王子                                          伏拝王子
    本宮町伏拝字茶屋続157
  目標物=
  駐車=道の傍が広い
 車は水呑王子から元の道まで引き返し3km弱、「向栗須」バス停を鋭角に右折れ200m程上った所を左に取って道なりに500m、林を抜けたところ左側。
 王子跡は、休憩所と古道を挟んで反対側10段ほど登ると、庭状の小さな広場に石造りの小祠が祀られ、横に和泉式部の卒塔婆がある。 元は休憩所の右後ろの畑の上部にあったという。
 初めて本宮の森を遠望できる場所で、ここから本宮の森の社殿を伏し拝んだので伏拝王子といわれている。確かに遥かに大斎原の森が望める。京よりはるばる来た和泉式部がここで月のものがあらわれ、不浄の身で参詣が叶わぬと嘆いたが、夢でその遠慮は要らないとの熊野権現のお告げがあった伝説は有名。

伏拝王子 遙かに大斎原の森 「ほんまもん」ロケの家と左の森が王子址

 この伏拝地区は山間部で標高が高いのにも関わらず人家が多いのにびっくりする。
次の祓戸王子へは古道を歩かねばならない。途中の三軒茶屋跡は中辺路と小辺路が分かれ「右かうや、左きみい寺」と書かれた道分け石と関所跡がある。ここだけは車で行ける。R168号線の三里中学校より100m本宮よりのガソリンスタンドの横から上る。三叉路付近に駐車できる。
 小辺路は高野山からすぐに奈良県野迫川、十津川を通って、十津川平谷付近で熊野川に出る。果無峠を過ぎて再び和歌山県に入り、本宮町八木尾で国道168号線にでる、三軒茶屋の九鬼ヶ口関所で中辺路合流し熊野本宮大社に至る道。

中辺路、小辺路の道分け石 九鬼ヶ口関所  



  祓戸(祓殿)王子                                      祓戸王子
     本宮町本宮字下祓戸1077
  目標物=本宮大社
  駐車場=本宮大社の裏鳥居付近、団地内の道路

 本宮大社の鳥居右側の道を入り50m程で左に登ると本宮大社の裏門、50mそのまま進むと道の横にイチイガシに囲まれるように小祠が祀られている。 伏拝王子方面から車で来ると本宮大社少し手前をのぼり、祓戸団地を抜ければよい。
 海南市の藤白神社手前にも、同じ名前の王子がある。由緒ある神社へ参拝前、旅のけがれを祓い清める潔斎所であったと云われている。なお今ここに祀られている石塔は産田神と天神社である。

祓戸王子

 

  本宮大社                                          本宮大社
    本宮町本宮1110
  目標物=本宮大社
  駐車場=R168線の鳥居前に30台又は裏門の臨時駐車場
 
 祓戸王子からだと裏の鳥居から入りお参りした方がR168号線の正面から入るより不謹慎だが便利だ。
 熊野三所権現といわれ、十二殿に十四柱の祭神が鎮座するので熊野十二社権現とも言われる。
 証誠殿(しょうじょうでん)には主神の家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)を祀り、平安初期には熊野坐神(くまのにいますかみ)と呼ばれていた。「熊野縁起」には「大日本六十余州衆生我の許に参る者は、貧窮を除き富貴を与う、現世安隠後生善き所に生まれしむ、之、證誠阿弥陀如来熊野大権現也」というからすご〜く有難い(*^_^*)

正月の本宮大社、左から2社目が證誠殿 ユネスコ世界遺産委員会発行の認定書レプリカ

 熊野信仰は一遍上人が熊野権現から神託を得て時宗を開くと、熊野と浄土信仰の繋がりが強くなり、念仏聖や比丘尼により民衆に熊野信仰を広め全国各地に熊野神社が建てられたていった。だが江戸後期の紀州藩と明治政府の神仏分離政策により熊野信仰は衰退していく。

  *熊野参詣道はいつ開通?
 大化の改新後、大化5年(649年)初めて熊野の参詣道を作ったことが記されているようだが、これは大和から紀ノ川を下り熊野に詣でる道であったと云われている。
 *世界遺産の認定書
 平成16年7月7日世界遺産に登録された認定書のレプリカが本宮行政局(役場)1階の「世界遺産センター」に展示されている。

 

  大斎原(おおゆのはら)                               大斎原 
    本宮町本宮
  目標物=森
  駐車場=国道の鳥居のから50m程南の右、コミュニティーセンターの裏の空き地
 
 熊野川と音無川に挟まれた中州が大斎原(旧社地)、もとの社殿は現在の本宮大社の8倍の規模であった。熊野川に浮かぶように建っていた社殿へは、上皇ですら音無川を禊ぎの渡河をし詣でたというが今は水がない。大斎原の横、今は水田になっている所は御幸時代は熊野川と音無川がぶつかり合うような川原だったと想像する方が神々しい雰囲気になる。明治以後に植えられた杉で今は森を形作っている。川の中に浮かぶ森はその昔、神が下りたというイチイガシを始め照葉樹林の原生林に囲まれ、壮大な社殿がその中のに建っていたと想像するとき、定家の「山川千里 遂奉拝寶前感涙難禁」は、感情を抑えて書いているのではないかと思ってしまう。

 社殿の浄域は長方形を成しているが、正面に向かって左手前に少し突き出ている。「一遍上人絵傳」、「紀伊國名所図会」の社殿図絵にこの場所に礼殿が描かれている。この社殿が熊野御幸の折の御所となったという。

 *日本一という大鳥居が田圃の中にある。車で乗りこむと道が狭く回転が大変なので要注意

熊野川の河原 大斎原 旧社地周りの石垣

 長寛(ちょうかん)二年(1164)に書かれた「長寛勘文」の「熊野権現垂迹縁起」では、熊野権現の起こりは中国・唐の天台山の守護神である王子神が八角形の水晶の石、高さは3尺6寸の姿で英彦山に飛来、5年後石鎚山、6年後淡路島の諭鶴羽山(ゆずるはさん)、さらに牟婁郡の切部山、新宮神倉山、阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申したこの間57年が過ぎ、熊野本宮(大湯原)のイチイの木に三枚の月の形をしたものとして天降る。8年後、熊野千代定という猟師が1丈5尺の猪を射ち、後を追って行くと大斉原のイチイの木の下で倒れていたので、その肉を食べた。その夜木の元で泊まったところ、こずえに三枚の月を見る。月は「熊野三所権現である」と名乗り、「一枚は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)、後の2枚は両所権現」である名乗ったので千代定はそこに三所の宝殿を建てたのが熊野三山の始まりという
 「熊野権現垂迹縁起」では、熊野権現は三体の月の姿で現われているが、南北朝時代に成立したと考えられる『神道集』の熊野権現縁起譚「熊野権現の事」では三枚の鏡の姿で現われているという。

近露〜本宮の歩く距離と所要時間
 約 22km  8時間50分
近露王子→(2.4km;1時間10分)→比曽原王子→(1.0km;20分)→継桜王子→(0.9km;15分)→中ノ河王子→(2.0km;30分)→小広王子→(4.3km;1時間10分)→岩神王子→(2.2km;1時間30分)→湯川王子→(3.8km;1時間20分)→猪鼻王子→(0.8km;15分)→発心門王子→(1.8km;30分)→水呑王子→(1.9km;40分)→伏拝王子→(3.0km;1時間)→祓戸王子→(0.1km;3分)→熊野本宮大社→(10分)→熊野本宮大社旧社地


三 足 烏
 「さんそくう」と読むそうだ。熊野三山の神の使いであるヤタガラス(八咫烏)は三本足だ。三足烏は高句麗の壁画古墳に多く見受けられるが、国内ではキトラ古墳の天文図の中の日輪にいるだけの珍しい図案だそうだ。中国の神仙思想で、月には蝦蟇が、太陽には烏が棲むという。紀元前後頃に三本足になったという。熊野のヤタガラスも神仙思想の影響が大きいと思われている。
 『古事記』、『日本書紀』に記載のある「ヤタガラス」は、日本を建国した初代天皇を助けた偉〜いカラスなんだ。

*ナ ギ の 葉
 ナギは熊野権現の御神木で、その葉は、笠などにかざすことで魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれるものと信じられていました。
 ナギの葉は、縦には簡単に裂くことができますが、横には枯れ葉であってもちぎり切ることができない。コゾウナカセ、チカラシバなどの別名があるほどじょうぶである。その丈夫さにあやかって、男女の仲を結び付ける力も強いと信じられ、昔の女人は鏡の底にナギの葉をいれ、夫婦の縁が切れないよう、離れていても忘れぬようにと願う習慣があったそうだ。平成のご婦人方も平安時代の女人にならい、手鏡やコンパクトに張り付け楽しまれてはいかがでしょうか。

経 塚
 本宮大社の旧社地大斎原の熊野川の対岸の山を備崎(そなえざき)と呼ばれている。ここから数十以上の経塚が見つかっている。経塚は平安時代の終わり、末法思想が流行し56億7千万年後の弥勒再来に備え教典や仏具を埋納したものである。文政8年(1825)大きな陶器が出土、その中から金メッキの経筒、経、丈七寸の阿弥陀仏等が発見されたと「熊野年代記」にも書かれている。陶器(上野博物館蔵)の銘文には保安二年(1121)僧良勝が発願、秦親任が資金を出し大般若経六百巻を五十巻ずつに分け蓋付壺十二個に治めたと彫り込まれている。永久年間(1113〜18)政策と推定される松尾大社の「松尾一切経」にの秦親任の名が見られる。
 熊野の経塚は備崎のほか、那智山、神倉山、蓬莱山に多数見つかっているが、備崎は奥駆道沿いにあり大社(旧社地)を望む御加護の厚い地である。(05.7.28サンケイ新聞より)
 

*乳 房 石
 駐車場=製材所前広場
 本宮大社下の庁舎(役場)の裏、音無川に沿って1qほど上ると右に前に広場のある製材所がある。その50m程手前左側にわかりにくいが柱に書かれた標柱が立っている。そこから小さな谷沿いに100mほど上ると左側に鎮座?している。
 役場の観光課でも分からず調べてもらった程、余り知られていないが物好きには一見の価値有り。

本宮大社のヤタガラス ナギの葉を平成風に 備崎を望む    乳房石

本宮を調べていて面白いと思ったサイト
  http://www.mikumano.net/meguri/oyunohara.html 
  http://www.kamnavi.net/ki/nanki/honguu.htm
  http://www1.sumoto.gr.jp/mozar/senzan/zenkoku_kaizandensetu.htm
  http://okukumano.at.infoseek.co.jp/kumano/jinmu.html