県境から藤白王子

 窪津王子からほぼ平地を通ってきたが、和歌山に入ると峠の連続、いよいよ熊野古道らしくなってくる。川辺王子から平尾王子、松代王子から藤白王子までの街中は、時には江戸時代の6尺道そのままの狭い所もあるので走行要注意。
 

 和歌山県内の熊野古道の地図は、「紀伊山地の霊場と参詣道」の公式の”街道マップ”が分かりやすいので参考にされるとよい。

  和歌山の地図 http://kanko.wiwi.co.jp/walk/index.html

中山王子〜吐前王子  川端王子〜菩提房王子   祓戸王子〜山口王子

   


 中山王子 
   和歌山市滝畑                       中山王子址
 目標物=JR踏切
 駐車=道路脇

 JR山中渓駅から雄の山峠方面に1k程行く。小さな川に架かっている橋が大阪と和歌山の県境。ここで最後の敵討ちがあったと書かれているが、高野山にも最後の敵討ちの場所がある。「日本最後の敵討ち」はあちこちにあるが和歌山県に2ヶ所もあるって自慢して良いのかな?
 県境から中山王子は200m程で斜め右に踏切を越えればすぐ、車は県道に置いておくと良い。
 ここから和泉山脈の雄ノ山峠越え、今も高速道路、JR、県道(古道)が絡み合うように越えている。
 

踏み切りの向こうの王子址 中山王子址  正面は京都から初めての峠、雄山峠

 

大阪・和歌山県境の境橋  境橋は日本最後の仇討ちの場 

  

 

 

 山口王子 
   和歌山市湯屋谷字山の下118            山口王子址地図
 目標物=県道64号線・三叉路すぐ右側
 駐車=道が広くなっているので駐車可

 急な雄ノ山峠を下りきり、暫く行くとJRの小さなトンネル状のガードを抜ける。100m程で三叉路、左に下るように進むとすぐ右側に山口王子社跡。中山王子から約4km、峠を越えてやっと和歌山に入ったという気がする。
 近くに小野小町の墓があると云うが見つけられなかった。美人に縁がない証拠かも(^O^)
 戦前は旧態を残した史跡であったが、戦争中境内址の松林を伐採してから荒廃してしまったと言う。道端の碑のみでそれらしき址は見あたらない。
 合祀されている山口神社は西方400m程の所にある。熊野街道沿いにあり、上皇や女院もしばしば立寄ったと伝えられているだけあって、阪和線の線路が後に迫っているものの静かな落ち着いたお宮である。お参りしたとき社殿の前の広場にイノシシの足跡や掘った跡が無数に残っていた。

        山口王子址

 
*後鳥羽院熊野御幸記
「八日、天晴、拂暁に出道す、信達一之瀬王子に参る。又坂中に於て祓す、次に地藏堂王子に参る、次にウハ目王子に参り、次中山王子に参り、次に山口王子に参り、次に川邊王子に参り、次に中村王子参り、次に晝養の假屋に入る
 *「続風土記」
 「境内周三十二間、村の北にて山の麓にあり、土人伝えて是熊野九十九所王子の一なりといえり、一に三橋王子とも言う」山口湯屋は熊野参詣人のために設けられた接待所・救護所であり、近露、滝尻にも湯屋があった。

 



  川辺(かわなべ)王子 
    和歌山市上野23                   川辺王子の地図  
 目標物=県道粉河加太線・中村モータース・
 駐車=王子の前に1台又は西蓮寺の駐車場  

 現在は川辺の力持神社に「川辺王子」として祀られているが、「続風土記」によると力持神社の初めは神波にあった。上野の川辺王子(八王子社)の境内に移され、さらに川辺王子と共に現在地に遷ったと伝えている。「和歌山県聖蹟」に書かれている力持神社を川辺王子址としている方が地理的に理にかなっている。
 上野23番地の元の場所と云われる所は、山口王子より粉河加太線に出て西へ1km余りで左側に中村モータース、その西側を左(南)に入る。車ぎりぎりの狭い道をしばらく行くと左に西蓮寺が、その前を右折すぐ左折れで川辺王子がある。
河岸段丘上の西蓮寺の墓地に東屋があり東を見ると市内とは思えぬきれいな水田が広がっている、1000年前は芦原だったのかも。

川辺王子 川辺王子

 


  中村王子                 中村王子地
   和歌山市楠本
 目標物=三叉路
 駐車=路肩

 川辺王子を南に進み、川永団地を西から東に抜け力持神社の手前200m、T字路を左側に道を少し入った右路肩に和歌山市教育委員会の掲示板だけの跡。
 中村王子は紀ノ川を渡る準備を行う王子との説があるが理解できない。
「続風土記」では楠本の楠大明神社(楠本神社)を、また「紀伊国名所図会」では集落北西端にあった若宮八幡宮を中村王子に当てている。

 川辺王子・中村王子・川辺の渡場・吐前王子と紀ノ川周辺は大洪水があればその位置は変わったであろうから、熊野古道を特定するのはナンセンスだ。
 神坂次郎著「熊野御幸」では早朝に厩戸王子を出立した定家は、中村王子と川辺の渡しの間、洪水の為かごろごろした石が散乱する荒れ地の昼養の仮屋で食事を取った事になっている。潅木などは水で倒されたり埋まったりしている荒れた広い河原で昼食を取っている上皇の行列を想像するのもおもしろい。

力持(りきし)神社                           力持神社
 水田の中に繁った森があるのでよく分かる。

中村王子あと 力持(りきし)神社 本殿


 



  吐前(はんざき)王子 
   和歌山市吐前字御幸堂737                吐前王子址地図
 目標物=踏切から150m
 駐車=すぐ横に空き家のガレージがある

 中村王子と同様にこの王子も痕跡の無くなった王子である。
 中村王子跡から力持神社の前を東に向かいR24バイパスを横切り東進200m、T字路右折れ50m程で左に大きな由緒ありげな家を右折れ50mで左に折れれば紀ノ川の土手下に「川辺の渡し」の説明板がある。この道は狭すぎるので車はそのまま西に進み川辺橋の北側のR24交差点に出る。川を渡って左折れ旧国道24号線沿いの土手の下にある「毎日牛乳」の煙突の所を右に下りそのまま東進。右にスバル自動車屋の東のJR和歌山線の踏切を越え4枚目の田(約150m)付近。ここの看板の北東、今は一面の水田だが元は紀ノ川の自然堤防の上で江戸時代には森があったようだ。この土地を
地元の人は、「オコードー」(御幸道、御幸堂?)と呼んでいる。洪水の度に変わる紀ノ川両岸は実際の古道の道筋を特定することは不可能。後世は少し下流で紀ノ川を渡ったので、このあたりが寂れていったようだ。

      吐前王子址


「修名門院熊野御幸記」
  承元4年4月24日、修名門院は紀ノ川を国司が用意した高欄水引で飾った船で渡り「在崎」(吐前?)の行宮に着いている。


 



  川端王子
   和歌山市布施屋字松垣内708                川端王子地図
 目標物=布施屋駅
 駐車=皇子の前、横の駐車場

 吐前王子址を南に行き突き当たりを右折(この付近はすごく狭いので吐前王子より引き返し、「毎日牛乳」より200mほど東側で布施屋駅に通じる道路に回る方が良い)、吐前自治会館の前の道を西に進む。布施屋駅をさらに西へ行くと二股に道が分かれたところに王子跡の祠がある。
 この王子は、後鳥羽院熊野御幸記(明月記)や修明門院熊野御幸記には登場せず、中世にはなかったものと考えられている。しかし江戸時代初期には、二社の和佐王子がありと書かれているので、一社は坂本(和佐王子)、他の一社は熊野街道沿いの川端にあったのがここに移されたものらしい。明治に高積神社に合祀されたが、後戦時中には高積神社の遥拝所として再建されたと云うのだから、無理をして狭い道をあえてこの場所に来ず、平成の熊野詣では広い道を通り和佐王子に直行してもいいのかも。
「続風土記」では川端王子社については「昔は村の西七町小栗街道にあり・・」と記されている。
 ここの地名が「布施屋」、熊野参詣者などへ接待する布施屋があったことから地名が付いたという。

 

     三叉路にある川端王子

 川端王子までも道は狭いが、これから更に西に進むとなお狭くなる。保育所から100m程の所で三叉路(標識あり)を左に取るほうが道は広い。直進すれば人家が切れた辺りは本当に通れるのかと心配になってくる。まもなくT字路で左折れし2m程の直線の道を南進する。このT字路の右はJR和歌山線の踏切、この辺りが「続風土記」で言う川端王子社の跡と比定でき、又藤原定家はこの付近の紀ノ川で禊ぎをして日前宮に奉幣に向かっているようだ。
 このT字路からほぼ直線で南進、広い道を渡っていくと和佐の集落だ。
  
 



 和佐王子
    和歌山市禰宜字権現260                     和佐王子の地図
 目標物=矢田峠にかかる左側 
 駐車=王子址から20m程先

 和佐の集落内の旧道をから新道に出た所からすぐ。坂本王子とも呼ばれ、「紀伊風土記」には、村の南2町ばかり、小栗街道字坂本というところにあり、因って、坂本王子と称す。社なし、碑を建て、和佐王子の4文字を彫む。寛文年中(1661〜1673)建てるところというから、初代藩主徳川頼宣が建てさせた王子碑の一つだろう。
 ここから越す矢田峠は、1427年の北野殿熊野参詣日記には「和佐たう下」と書かれている。

 川辺王子から和佐王子までの紀ノ川平野は、今でも水位が高く水路の水と道路の差が余り見られないのからすると、水路の整備されていない昔は洪水の度に変わる湿地をさけながら道を変えて紀ノ川平野を横切ったのであろうか。
 斉明天皇・持統・文武三帝が武漏温泉(白浜)に行幸した古代の御幸道は大和より紀ノ川を下ってこの付近に達し、これより南は一部海路を取ったりしながら田辺までは熊野御幸道とほぼ同じ経路をたどっている。

   車の上に見えるのが址


和佐王子に行く道の傍に2500平方メートルもある重文の大庄屋中筋家住宅が現在解体修理中だ。また王子址の50m程上に江戸時代の弓の名人和佐大八郎(三十三間堂で一昼夜に1万3053本、5〜6秒に1本引いた計算になる)の墓がひっそりと山の中にある。三十三間堂といえば、
後白河上皇の離宮法住寺殿の一角にあり、長寛2年(1164)平清盛に命じて造らせたもの。

鎌倉・室町時代に熊野詣の接待所の施設があった歓喜寺       和佐大八郎の墓     解体修理中の中筋家

*松下幸之助生家跡
  川辺橋を渡り右折1kmほど和歌山より、「千旦」の信号を左折れしてすぐ右折、踏切を渡ると左側に生家の標識がある。



○日前宮
                                      日前宮地図
 目標物=大きな森
  駐車=境内にあり、200円と書いているが、「お宮に参りに来た」と言えば無料

 上皇達と別行動をして定家がお参りしたので平成の熊野御幸も寄り道(^O^)(^O^)。
 和歌山ICから市街地に向かって約2km。左側に大きな森が見えてくる。
 このお宮さんは、元は地方豪族の紀氏の伊太祈曽宮があったが、大和朝廷の力が増しこれを追い出して伊勢系統の神を祀ったのである。上皇は政治的な意味もあり定家のような者に奉幣だけでもさせたのかも。定家は御弊使となり日前宮に参った様子を御幸記に細かく書いているのは興味深い。
 「日前国懸神社」(ひのくまくにかかすじんじゃ)と言うだけあって、正面の参道を進むと左右に分かれる。左に行けば日前宮、右に行けば国懸宮とシンメトリックなお宮さんである。日前宮の御霊代は御鏡、国懸宮は日矛で共に天照大神の前霊だと言う。

日前国懸神社入り口 国懸神社 杉皮葺きの末社、王子の多くはこの程度だったのか


 平緒王子
    和歌山市平尾字宇須松562                 平尾王子跡地図
 目標物=平尾会館
 駐車=会館前に1台止められる。

 矢田峠のトンネルから1.5km程で「四季の郷公園」の看板のある交差点、それより200m程で右の狭い旧道へ、更に200mで右に平尾会館あり、その前に標識がある。御幸記には定家は日前宮から直接奈久智王子回ったので「ワサ王子・平緒王子は道次にあらざる之間參らず、先達許り奉弊す」と書かれている。
 
元は本殿、拝殿もあり、社領も五段半あったと云う。秀吉の紀州攻(1585)で荒廃し、その後2尺2寸四面の社殿を再建され明治の神社合祀で近くの都麻津比売神社に合祀される。
   

     平尾集会所の前に王子址




伊太祈曽神社
                                       伊太祈曽の地図
 目標物=伊太祈曽駅                
 駐車=お宮の前を通り過ぎて左に入ると大きな駐車場がある。

 矢田峠からの県道9号線、踏切を渡り直進していくと神社の前に出る。
五十猛命を祀るこのお宮は伊勢、出雲と並ぶほど古いらしい。元は日前国懸神社の場所にあったのが追い出されここ遷座した

      伊太祈曽神社 さすが木の神様、木くぐりで厄払





 奈久知(なくち)王子
   和歌山市奥須佐字王子3                               奈久知王子の地図
         
 目標物=オオジ建設
 駐車=オオジ建設駐車場は声を掛けると気持ちよく置かせてもらえる
  
 左側にオオジ建設の事務所、道の真向かいに納屋の壁に案内板がある。そのすぐ南の小道を20m程登る。
「紀伊名所図絵」はじめ多くの案内書はここを指している。

県道沿いの説明板、ここから登る 奈久智王子

 奈久知(なくち)王子              続風土記の奈久智王子
  
和歌山市薬勝寺字向い山
 目標物=竹藪
 駐 車=工事途中の道なので広い
 「紀伊続風土記」には「王子権現社、境内周二十四間 村の巽四町許にあり、熊野古道の向い山の麓にあり。按ずるに、御幸記に見えたる、ナクチノ王子、則ち当社なるべし」と書かれている。オオジ建設より更に1km弱南進し高速道路をくぐり左に高速沿いに600m、道は右に曲がりる所を直進状に150mほど入って舗装が切れ道が細くなった所で右にカーブしている。ここを竹藪に入っていくと小さな地蔵さんが三体祭っている。さらに数m竹藪に入り左側5m奥に小さな祠がある。ここは案内板も何もない。
 ここから熊野古道は1.8mの舗装路なれど、車はぎりぎり通れるが県道に戻り松阪王子に向かう方が賢明。

紀伊続風土記に云う奈久智王子



 松坂王子 
   海南市旦来字王子前1427                     松坂王子地図
 目標物=左にカーブした坂、道路左側は来客用の駐車場
 駐車=駐車場

 海南方面の標識に従って県道136を走れば直線の道路が左にカーブ、登りになりながら右にカーブする右側に山の木に隠れるように王子址がある。
 庚申さんが祀られているが、王子址に庚申塚が移されてきたのだと云う。
 松阪王子跡から松代王子までは、小さな峠を越える。この付近に神武東征とかかわる伝承が伝わっている。峠のクモ池付近が神武軍と名草戸畔(なくさとべ)の戦いの場となり、ここで女賊名草戸畔が神武軍によって殺された。頭を宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴を杉尾神社(別名おはらさん)、足を千種神社(別名あしがみさん)に葬ったと云う。記紀には見られないが滅ぼした名草戸畔の祟りを恐れ祀ったものであろう。
 ちなみに頭を葬った宇賀部神社はルバング島の小野田寛郎氏のお父さんが宮司をしていた神社。

 

松阪王子址の庚申さん 宇賀部神社



 松代王子 
    海南市大野中1055                         松代王子の地図
 目標物=松代橋
 駐車=j児童館の前

 松坂王子から汐見峠を越へ県道を海南方面に、信号のある交差点を過ぎ、春日神社への入り口からから200m程南下すると日方川の松代橋東側に松代王子の案内板がある。立ち上がるような急坂を上ると児童館、ここから100m弱。緑泥岩で作られた王子碑は、稲荷神社と並んで祀られている。ついでだからこれを進むと忠魂碑の広場があり向かい側にながめる春日神社の鬱蒼とした森は古を彷彿とさしてくれる。 
 王子碑は元は登り口左奥の社家出口氏の邸内に有ったとか、和歌山縣聖蹟では大野中字藪田1055であったとか。いつの時代かここに移されたので、古道をたどる人には石碑を見るためだけに上がってくる意味はない

ここから急坂をあがる 松代王子 春日神社の森




 菩提房(ぼだいぼう)王子
   海南市大野中字南ノ前95                      菩提房王子地図
 目標物=蓮花寺・梅本建具屋
 駐車=30m程南の右に空き地

 松代王子から春日橋を渡り、4斜線の広い通りを横切る、なおも直進し開基は明恵上人という蓮花寺より200m程進むと左側に梅本建具屋さんの角に菩堤房王子跡の石碑と説明板がちょこんとある。何とも変な祀り方をしているようだが、建具屋さんの敷地は元は水田だったので、その片隅に祀っていたものである。
 説明板によると、「続紀伊風土記に『鳥居村界熊野古道に字ボダイというあり、その廃跡ならむ』と記されているが、早い時期に失われ現在はボダイと云う字名もありません」と書かれている。

車に引掛けられそうな王子





 祓戸王子 
    海南市鳥居字北浦257               祓戸王子    第一の鳥居跡
 目標物=日限地蔵
 駐車=日限地蔵の下の広場

 菩堤房王子跡を少し進むと道は西に向かう。日限地蔵下に車を止めてここから歩く。100m程行き左に曲がる、この三叉路に鳥居があったことを示す石柱がある。それより50m標識があり左折れしそのままだらだらと登ると道が途切れ昔の熊野街道を彷彿とせせる山道を登っていく。西国三十三カ所の石像が並ぶ道を進むと林の中に祓戸神社趾の石碑が立っている。説明板には元の場所は下の三叉路付近にあったと書かれている。先の松代王子もここ祓戸王子も石碑をあたかも邪魔物のように山の上に持ち上げられたようだ。 
 この辺りの地名は鳥居と言い、熊野三山の一の鳥居が立っていたとの事である。祓戸王子は鳥居王子や大鳥居王子とも呼ばれていた。今では次の王子社でもある藤白神社に合祀されている。

   祓戸王子跡の碑     熊野一の鳥居跡




  藤白王子  
    海南市藤白字王子免448           藤白神社駐車場    有馬皇子の墓の地図
  目標物=大きな楠の森
  駐車=境内左側の駐車場

 これから越えなければならない長峰山系は南紀との境を屏風のように隔てている。藤白神社はいかにも神域との境の雰囲気がなんとなく残っている。
 
街道なりに来ると間違うことはないが、R42号線からだと藤白交差点・高速乗り口の左側の道を入り、大きな楠が目標だ。
 藤白王子を祀る藤白神社は、斉明天皇が、紀の湯に行幸の際にこの地を訪れ創建されたと伝えられている。熊野への玄関口を示す鳥居の役目もする最初の五体王子であることから、歴代上皇らが熊野詣での際に必ず宿泊し、歌会などが開かれた。

 南方熊楠は境内にある楠神から「熊野の神宿る楠」と、ここから2字を受けたと云うのが自慢だった。熊楠4歳の頃に脾疳という小児病を患った時背負われてこの楠神にに参ったのを、後年まで「眼前に見る」ごとく覚えていて、楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発したと述べている。

 有馬皇子の墓と歌碑は西に200m程行ったところにある。前に一台止められるが、途中の高速道路下に止めた方がUターンもしやすくゆっくりと見ることが出来る。

 淀川の八軒屋からここまでは古道とはそう離れずに車で走ってこられたが、次の藤白峠王子へは大回りしてR42下津町小南交差点を周り加茂谷から登らねばならない。海南ICから下津ICを高速を使えば古道のほぼ真下をトンネルで数分で抜けられ便利、通行料260円。

  藤白王子社境内の楠神      有馬の皇子の墓




鈴木屋敷
 目標物=藤白神社土俵の東隣                       鈴木屋敷地図
 駐車=藤白神社の駐車場

 藤白神社の東方100m程の所に全国200万の鈴木姓のルーツといわれる鈴木邸跡があるが曲水園の池がかろうじて残っているのみ。鈴木氏も熊野詣と深い関係があり熊野御幸が盛んになった頃、熊野の鈴木氏がこの地に移り住み、熊野三山への案内役として熊野信仰の普及につとめたともいう。
 往古、貴人たちの優雅な遊びのために作られた曲水園は、曲がりくねった水路に沿って庭石を並べ、客人達は庭石に腰をかけ上流から流されて来る杯が自分の目の前にくるまでに詩歌をつくり、杯を取り上げて酒を飲み、次へ流した。造園年代は室町時代のものと推定されているのでかなり古いが上皇達の熊野詣から見れば新しい。

鈴木邸の曲水園