熊野詣紀行上巻   熊野関係古書    

浦のはまゆふ
 熊野詣紀行 
*割り書は「 」で、絵図は(・図)で表しています。
この記載は清水章博氏がワープロ化したものをHPで見えるように改変したものである。もし原文を希望するときは本人<simiaki@axel.ocn.ne.jp>に直接mailして下さい。


  熊野詣紀行

うらのはまゆう 下巻   

本宮の町 おとなし川の末なる高橋の辺へいづる
    此本宮の人家屋根は瓦葺なし、板を並べなどして、その上に細き木にてお
    さへ石を上におきたり、かべも大かた板かべを用ゆ
おとなし川 源本宮庄三越山より小森村・一本松村・本宮村を経て熊野川へ入
        金  葉         源  盛清
      卯の花を音無川の波にとて ねてもをらで過ぎにける哉
        続 捨 遺          藤原 忠資
      名のみして岩波たかく聞ゆなり 音無川の五月雨のころ
        古  歌          よみ人しらず
      くまのなる音なし川にわたさばや さヽやき橋のしのびくに
    高橋左へ渡りすぐに行けば、本宮御宮なれど右へまわり行、西側なる庵主
    坊に着
今廿八日 庵主坊 御炊大夫方止宿
    坊数あまたなれど紀の坊はみなく橋の上にあり
    是即大阪坊といふ、坊数あまたあり、されど旅人の望みにまかせず国々に
    わかちあり、何れの国はかの坊その坊と定りあるなり、那智もこれに同じ、
    新宮は宿坊なきよし也、庵主坊は本宮・新宮ともにあり、安喜坊と書くは
    非なるよし、坊中の人々にきけり此夜おひつるの判□王たなど更る
    神供料十二匁並に止宿の挨拶金茶代等さし納めたり」
    熊野の間はすべて材木沢山なるゆへにや、人家すべて屋根は板をならべな
    どして、木をのせ石をおもりにす、前にしるせし事にて雨のふせぎ甚だあ
    しく見ゆる、此庵主坊はむかしハ僧にてあるよし、今は総髪にて烏帽子大
    紋を着す
翌三月廿九日 天気よく出立て先御社のかたへまうでける、御炊太夫より御供調
    伏し奉る
本 宮 号亀甲山大雲寺
  證誠院 本地 阿弥陀佛            
    人皇十代崇神天皇六十五年に立、廿九年以前に天災にて焼失せしとて假殿
    なり、むかしは新宮・那智にもまさりたる宮殿にて禮殿といひしは、梁行
    十九間桁ゆき廿五間あり、内に南は大黒天北は御輿、軒下千畳といひて大
    殿なりしやとうけたまはる、今に造宮も出来ずと□□相なる假宮なり、社
    は辰巳の方に向ふ
    神宮神倉山・那智ともいづれも辰巳向也
    熊野三所とも大抵同じ神なれど、少しの異ありその如くに記す
    那智山も十二所權現を本社とす、觀音は本地佛也
  音無天神
  白河院三十三度参詣の石塔也 三十三度の塔なれば後白河院なるべし
  泉式部十七度参詣の塔
    いづれも本社假殿のつヾき同じ所にあり、塔は廻りに小石多くあり
    参詣の旅人其小石を塔のかたちに積事なり
  満山護法院 八百萬神社
  辨 財 天 八咫烏社
  地主神社 高倉下命 穂屋姫命也
  禮 殿   此外畧す
熊野御幸ありしは
  崇仁帝 六十一年九月十五日
 

        
(図)



   
(図)



        
(図)


  景行帝
  仁徳帝
  平城帝 五度
  清和帝  貞歡十八年
  宇多帝  寛平九年二度
  花山帝  正暦三年
  白河帝  寛治四年正月
  堀河院  長治二年二月 
  鳥羽院  八度
  後白河院 永暦二年十月初度三十四度 土人三十三度と云
  後鳥羽院 建久九年八月初度廿八度
  土御門院 元久二年一度
  後嵯峨院 建長二年・同七年 両度
  亀山院  弘長三年
        後白河院三十三度の時神殿にてつヽけさせ給ふ 
      わするなよ雲は都をへだつとも 馴れて久しき三熊野の月
        御かへしかんなきに詫宣させ給ひける
      しば/\もいかに忘れん君をもる こヽろくもらぬみくまのヽ月
        むかし陸奥に住ける老女の熊野へみとせ詣でんと願を立て
        参り侍りけるのいみじうくらしければ今二度をいかにせん
        と嘆きて神前にふしける夜の夢にみせ給ひけるに
      待ちわびぬいつかはこヽに紀の国や むろの郡ははるかなれども
      道遠し程もはるかにへたヽれと 思ひおこせよ我も忘れじ
        泉式部熊野に参詣障りありて奉幣叶はざりければ
      晴れやらぬ身にうき雲の棚引きて 月のさはりとなるぞかなしき
        となん詠じて いねたる夢に
      元よりもちりにましはる神なれば 月のさわりは何かくるしき
         音無の里、本宮の村と云ふと也    民部卿爲家
      おとなしの里の秋風夜を寒み 志のびにひとや衣うつらん
    この本宮の町に竹の坊とてあり、此所むかし弁慶安宅の関を越へしときの
    爲とて、ある奥州國司より熊野は辨慶出生の町なればとて、此所へおくり
    つかせられしと也、同処に曽我太郎の文といふもあるよし也、いとまあら
    で尋ね得ざりし
  八勉越の道 本宮より廿丁計南有馬と云処、産田明神と云社、又四花窟也と何
    れ続く所也、伊弉尊葬給りし所、偖社を拝し廻りて、御炊大夫の坊のかた
    はらより音なし大塔・岩田の三川落合、巴ヶ渕といふほとりへ出る、熊野
    川九里八町くだる、舟の乘場也
音なし川 古歌前にあり
岩田川     古 歌 に
      いわた川幾谷川の落合て 百瀬にかわる習なるらん
      思ひやる袖もぬれたり岩田川 渡りなれにしせヽの白波
熊野川
    この三流落合を巴ヶ渕と云、夫より下を熊野といふ、九里八丁也
        後鳥羽院御製
      熊野川下すはやせのみなれ棹 さすかみなれぬ浪のかよひ路
    早川なり、常水の時も三時を過ずして新宮の湊にいたる、此の間左右けは
    しき山にして名石・名瀧など多くしておもしろき山の間を流るヽ川なり、
    川幅一丁二丁所々河原の如き眞砂地ありて、その所を登りの舟などは引ゆ
    く也、本宮より新宮の方は東にあたりて少し南かたなり、順礼の絵圖とは
    少しちがふか、下り舟一艘かり切鳥目二貫匁也 


是より上下に山並みの絵、真ん中に川の絵が続く
           巴ヶ渕
上ハ                下は
 右ノ方也                左ノかた也
うけ川村       
(川の絵)   大峯七十五段のお北山を舟人かくたりしが
  人家多し              言葉わかりかね問返せども志かときこゑ                    かたしされど聖護院大峯入の時行場
                   の時の一の川なりときヽつたへける 
(山並の図)
                     小づか村
  小雲取より下る                        
(山並の図)
  処見ゆ  

大づが村                 紙すき家多し                       
(川の絵) 
   ばんせいのふもと           一帖の紙数は八十枚ある由也
   あしろかたけの            高野六十那智八十とは
   みあげ石あしろとは           紙一帖の数を云ひし事なるよし

   昔このほとりに住し           すでにその紙数も八十枚あり
   鬼の名なるよし退治し         高野は一帖六十枚なりそ
   て料理したるとて此間の
   名などはおほく鬼を
   退治し鬼を料理した
   る事によせたる名あり
               
(川の絵)
鬼の手かけ石                西屋敷村
 かの鬼とらへられるに            此処は川水北へ流る
 及びて手をかけしと
 也
                      八畳岩 大石水中にあり
(山並の図)
東屋敷村
鬼をきりしきたる              志ゆもく山
ゆへに此村の名あり               此の下に左に
とぞ
              
(川の絵)         (山並の図)
                     絹巻石あり
佛 岩 
 此処
 權現社御用石場               
(岩の図)
(高い山並の図)
                      川合村
おとが村                   甲の明神
 本宮より三里半
                      水合村
              
(川の絵)
                      小船村
志こ村                    此所東の覗きより落ちくる
 聖護院御殿ある               川あり、合流するなり
      よし        

                      楊枝村
(高い山並の図)
                       京三十三間堂棟木の
                       平太郎柳の切株に堂
                       建たり 本尊藥師佛にて
        
(岩の図)          頭痛山平癒寺と云ふ
   かいもち岩                なりと舟人かたりき
     水きはに               参詣繁盛の
        あり              寺なるよし
                              
(山並の図)       
(日足村此処)
 九里八丁の中といふ

                     わけ村
達 磨 石          
(川の絵) 
                      御本明神 鳥居見ゆ
                      
いの志ヽ石                花井村
                 
  高さ七八十間ばかり            弁慶力石
                
  の石也                   御釜石
                     
                       鎧いし
(高い山並の図) 
丸山 三本松                  亀石

たなご村                  のし村 最明寺氏此処に
                          野宿したまふとなり
                              
(山並の図)
  
(瀧の図)
    布 引 瀧
     高サ一丁の余           三重瀧
              
(川の絵)
                         山 家 集

                      みにつもる言葉のつみも洗は
                      れて心すみぬる三かさねのたき
  本宮より五里半
   ばかりといふに              
(瀧の図)
  葵の瀧又相生共
        あり
(山並の絵
                      女 石
  あおひの瀧の圖
                      小志か村
                        鬼のほねいし
 
(瀧の図)
                      長田村
  なびき岩                  仙人の森       
    高サ八九間にて             釣瓶おろし     
    三四十間なびきて            大もどり
               
(川の絵)
    見事なる岩               猿もどり   
      男 岩               比丘尼ころび 
                        蛇のわたの浦        
                       浅里村

  高田村
   包丁石                  
雲ヶ瀧圖
   まなはし石                 
飛雪瀧と云 
   まないた石   
                (雲ガ龍の図)
   鬼のきも石
   まないた石 きも石は
   二つの石にあらずまな
         右の雪が瀧 高サ十六七間と云
   いたの上にきもをのせた          瀧のおつるけしきむら/\として
   るやうの石也               さながら雪の飛ぶ如し見事なる
                        事絵にく付しからしされどたヽ
   つりかね石                かたちのみあらはし置也
   屏 風 石                志ら糸の瀧
   ひるしまの碁盤石             成瀬村
   畳 石
下の御ふね島のうたに
  少將 内侍                 御船島
                          夫 木
  みくまのヽうらはに見ゆる     
                       そこのせに誰が棹さしてみふね島
  御舟島 神の御幸に             神のとまりに事よさせけん
  こぎ廻るらん                この島は川中左の岸に
                       そひてある 新宮神事には
                       神舩出し此島をめぐると也

     牛の鼻社
     いかり島
           是より新宮の濱 舟着あり
新宮之町 三輪崎へ壱里半、那智へ四里半
   東海近く西は山つヽきてたよりよき大湊なり、家田辺におとらず、家建は
   異なり屋根瓦にて葺、かす板をならべくれ板にてふき、その上をほそき丸
   木又は三寸などにておさへ、小石をかす多く置きたり、角やしきの家の妻
   に破風をつけて堂のごとき妻なり、板かべ多し、すべて熊野路はかくの如
   きなれど爰ほど目立つはなし、此前の川より上りし処は河原にして、絵 
   圖の如く、両側人家ひきくかり家の如く建てり、小商人多く獵師もあり 
今三月廿九日終日天気よく、この町の東側なる
   島屋與右衛門方止宿、壱人弐匁旅籠
   此島屋にやどりをさためて日も高ければ、かみのくらへもうず


         新宮城
              早海川城
 (城と町の図)   町に入る
              城主 紀州
              家臣水野氏

   宿より四五丁西南のかた下馬場をこえて少しゆく、山のふもとに鳥居あり、
   けわしき坂をのぼる、坂中右のかたに地蔵あり

神藏山 海藏權現
  天照大神 高倉下ノ二神を祭とも云
   本地薬師如来にして金胎金剛寺と号し、祭神はつまびらかならず、熊野の  
   地は伊弉尊崩じ給ふ地なれば、此尊の御陰にてもありつらんと云説非なり
   神体は大なる岩にして、其岩に堂を建てかけたり、此堂は桁行十一間・梁 
   行六間調物あり、左甚五郎作といふさもあるべし、此岩を俗に不動岩とも 
   袈裟岩とも云ふ、左右は十一面観音・愛染明王あり


                            天照大神高倉下を
               (神藏山の図)      登ると也
        辰巳向                   新宮社へ行道

   中央は岩なり、此岩堂のうろへあまる
   魔所にて申の時より人おそれてのぼらずと、いとかしこく神さびたり、堂
   の前なる欄干によりて詠むれば眼下に新宮の町、東と南は蒼海なり景色い
   はん方なし、麓の人家より大黒天の御影を出す
                    入道太政大臣
     みくまのヽ神くら山の石たヽみ 上りつめても猶いのるかな
   もとの鳥居の所に下りて左新宮へゆく、此鳥居より半町ばかりにして、
   左に
 庚申堂 これにつヾきに

 妙心寺 爰よりせまき町の中を四五町も行けば、新宮朱鳥居前に木戸あり、左
   右に制石あり 銘に曰く
       人皇十二代景行天皇    禁殺生穢悪
       五十八年に建又五十九年共あり    下馬
   鳥居内に入ぬれば右傍らに牛王おひつるの判など請る所あり

 十二所權現 両者の本地「薬師如来 観 世 音」     
        草 根 集         中原師光朝臣
      天降る神や願をみつ汐の 湊にちかき千木のかたそぎ
        米 持 宮   面 足 宮
        飛 行 宮   大戸之道尊    
 下四社へ   勧 請 社   泥土煮尊
        十万      豊斟渟尊
            合殿
        一万       國狭槌尊
        子 守 宮     葺不合尊
        兒  宮    彦火々出見尊
 中四社へ
        聖  宮    瓊々杵尊

        
(十二所権現の鳥瞰図)

        禅 地 宮   天怱穂耳尊
        若  宮    天照太神
        證 城 殿   國常立尊
        本社結霊宮   伊弉冊尊
        中 御 前   伊弉諾尊
        以上十二社 伊弉冊尊を以て本社とす
   伊弉冊尊かみあかりし国なるゆへにや、伊弉諾尊かへって次に在、此二社
   を両者といふ、本地薬師如来観音習合の説、此両者の狛犬背をそらせふし

   てあをのきたるさま、よのつねに異なり、此内かの十社に在処はつねのか
   たちなれど、同じ時代の古作と見へて見事なる狛犬なり
        樓門 隋身も古作と見ゆ
        経堂 大日堂 三神堂 満山護法社 

   右は十二社のうしろにあり
         礼殿 内の後に觀音あり
         權現の釜 西殿のかたはらにある大釜也 謂はきかす
         御船舎 神輿舎 鐘樓 神馬舎
   本宮・那智の神馬は木作りなれど、新宮はまことの神馬なり
   此外末社多く、何れも美麗なり
三月悔日 朝より雨ふりながら立出て、除福の祠を尋ねんとゆく道に
  飛鳥社 宮居よし、神さひたり
   新宮攝社のよし
  秦除福之墓 此の墓熊野地と云処田の中にあり、土人楠やぶと云う、今は社な
   し、石を立て銘あり左の圖の如し
        名勝志ニ曰

    後漢書東夷傳倭国部日會稽海外有東靼人又有夷洲及壇洲傳云秦

                   (除福の墓図)

    始皇遣方士除福童男女数千人海求逢莱神仙得除福晨誅不
    敢還遂止比洲
    惟背東海瓊萃集曰世傳奏除福市上書始皇請下與童女五百人海求
    三神仙不死藥上得海島遂留不還即我朝尾熱田神祠是也曰紀州熊野末
    見之熱田者于礎萬檻湧出平沙上前瞰碧海晴豁万損天無殆平神仙樓
    支那諸書指蓬莱者於日本有二三所一日紀州熊野一日駿河富士一日尾州
    熱田沙門中津号絶海明明太祖問除福事津答之以詩曰
      熊野奉前除福祠 満山藥草両餘肥
      祇今海上波濤穏 萬里好風須早皈
    大祖和曰
      熊野峯前血食祠 松根琥珀世應肥
      昔時除福求仙藥 直到如今竟不皈
   此家より海道へ出行那智へ心ざしゆく、少坂もあり新宮の村も過ぎれば
廣津野村 茶屋あり、此村より海辺へ出れば
  一里塚 是より左は東南の海あら磯也
    浪の音高し、左はひくき山なり、新宮より那智の方は南西にあたる

  みたらひ濱 浜辺すべて松原にして、みぎはひくき山也、天狗たらし三たらい
       とも云ふ
     下圖の如くあら磯なり
     其岩に三処たらひの如くくぼかなる所ありて常
     に水あり、汐干すとも後より又わきいつると云
      (磯の図)
佐野庄三輪崎 宇久井へ半里
    三輪ヶ崎 夕汐させば村千鳥 佐野の
                わたりに都うつるなり
    右の歌は松葉集には大和の名所に入り又は近江と云、此ニ国海なし
    夕汐させばとあるは此処なり
    景よき松原みたらひの濱に同じ、左は東の蒼海右はひくき山なり
    此濱辺鯨取りの船多し、岸へ上りて覆かけあり、此船何れも底を丹白にて
    いろどりたり又はゑかけり、海士の子貝うる或はたばこを乞う又は銭をこ
    ふ、夫より此三輪崎の町へ入人家あしからず町並也、商人もあり茶屋酒肴
    あり、ちさにて包みたる鮓名物也      
  秋津野 此辺をいふなり

         藻 汐 草
      もかり船秋津の浦に棹さして 思ふ人とちこきつヽぞゆく惠重法師の作也
  さヽの濱 松原多し、人家街道より内にあり
      駒なつむさのヽ朝けに見渡せば 松原遠くなれる白雪
 大蔵卿隆博の作也
       秋風の寒き朝けを佐野の岡 越らん君に衣かさましを 山辺の赤人の作
  佐野碁石の濱 那智黒の石はこの濱にあり、此辺すべて熊野浦那智の濱なり
      古 歌                    
皇太后大夫俊成の作なり
       はるかなる那智の濱路をすきてこそ 浦と波とのはては見えけれ
  一里塚 二位の塔右にあり袖すり岩左にあり、袖すり岩通れば宇井村の松 
       原也、右はひくき山左は海東うけ也、景色よし、左に圖す
           目覺山おろすあらしのはけしくて 高根の山はねいらざりけり
            文覺上人の歌と云
       熊野浦にても佐野の庄の間景色殊によし、多く東海なり少し南を請る処も
       あり、くまのヽ古歌序なれば爰に出す
           読 後
                  正三位和家作
          みくまのヽ浦の濱ゆふいくかへり 春をかさねて露きぬらん  
            壬 生 集                 家隆卿の作
          かけまくも清き心をみくまのヽ 浦の玉藻の光をぞまつ



            (海岸の図)


  高根の松 せに島にあるよし、今は枯れてなし
  大夫の松 宇久井へ入口にあり
       此松見事なる松也、平維盛入水の時裝束を此松にかけ置しと也

佐野庄宇久井村 濱宮へ一里人家両側立つヾき、大道ひろく宿あり奇麗に見ゆ、人
    家の間大道に石原也、波打きはの如くうつくしく、うぐひ出はなれ、土橋
    を夫よりうねりを越て波打きはへ下り、又小く峠にかヽる

  小くし峠 上下三四丁計 
  大くし峠 上下五六丁計
     越ゆればくじの川の海へ落入る所の浜辺也
  くじの川 幅三間ばかり石つたいにて渡る、爰より那智の下馬まで陸続なり

あかいろ村 左は海、右は岡山也、畑あり
    此赤色濱は平維盛入水せし処と也

         辞 世
       いまぞしる弥陀の誓のふかくして 浪のうえにも蓮ありとは
  濱の宮 那智へ一里半 
  渚の森 濱の宮の森とをいふ
  補陀洛寺 右同所にあり本尊観世音、額の銘は補陀落寺とあり、是より海辺に
    あらず、天満村といふを左に見て行く、此辺宿あれども下馬迄の間は那智
    より之を制す、故に日の内は宿をゆるさず、をのづから那智の坊にしかけ
    たるもの也、夜に入て断をいへば宿すると也

川関村 茶屋あり宿前に同じ、右山近し左は山のこなたに川原を見て行、谷川石を
    つたひてわたる所其折板はし一ヶ所也、那智山見ゆれども此わたりにて雨
    しきりにふり出ければ、前後もわからでゆく
井関村 人家多し茶屋あり、宿前に同じ、標石あり         
(道標石の図)
    この村をすぐれば市野の村なり
市野の村 人家まばら也茶屋あり、此はら大なり
    去る天明八申年に山つなみとやらんにて、人家悉く流れ人も廿四人水にお

     ぼれて死しけるゆへ、こヽかしこにわかれて、今は人家もむかしよりすく
     なしと云
   二の瀬の橋 長さ十三間、幅二間半

     此辺より那智の下馬所なれば村の名の如く下馬/\といふ、村はやはり市
     のヽ村なりと里人かたりき、人家茶屋あり

那智山 号清岸渡寺                   *青岸渡寺
  一之萃表 東向なり坂の登口にあり、是を一のとりゐといへども、二の鳥居と
       ては見えず

  禁殺生穢悪 おの/\左右の石面にほり付あり、爰につヾいて
  下 馬
  ふりがせの橋 長四間余、幅二間ぎほうしゅ付

    爰より大門へ六丁、大門より瀧へ六丁、瀧より御社觀音へ六丁、御社觀音
    よりもとの大門へ六丁なり
    本社の地より大門の地はひきく、大門より瀧本の地は又ひくし、此ふりが
    せ橋よりけわしき坂を六丁まがり/\して登る、道の傍杉の樹多し、一丁
    一丁に立石あり

  大門 二王在 樓門也、東向
    勅額を賜りたり、銘に曰く
        日本第一霊驗所 根本熊野三所權現

    爰より瀧へ六丁ゆく道、何れもひらきたる道なし、三十六坊も陸に並び建
    たる所なし、一宇/\觀音堂へゆく道にて高きひくきあり、いづれも坊は
    こけら葺き、三十六坊も今は廿四五坊に過きすといふ

今晦日 新宮より雨ふりけれど立出、濱の宮などにては晴れ間なりしが、川関辺よ
    りしきりにふる、ぬれつヽ那智の坊につきたり
      當山大阪の宿坊 実方院 妻帶の僧也    
    此坊は南側にして宿し、座敷は東うけなり
    かき原にて別れし鳳瑞尼喜光尼は、とく着し居られたり、今宵より三夜同
    じ此坊に逼留す、日々雨しきり也
四月朔日 雨も少しおやみて見へければ、坊の案内にまかせ瀧をさして行、寺中を
    通り杉の木かけ物すごげなる所をゆく
  日本第一の御瀧 南のかたへ落る

    御瀧を即飛瀧權現と崇め奉る、本地十一面観音堂瀧本にあり、瀧の幅八間
    高百四十間、或は百丈或は百間と云、実を志ること能わず、国の主さへも
    高さをためし見給ふことさはりありしと傳へ聞けり、文覺の瀧は本瀧より
    流れ落ちる所を云也、圖の下に○印ある所也



       (那智の滝図)

           瀧の古歌        源 仲正 原本作者を欠く今之を補ふ(宇井)
      雲かヽる瀧の高嶺に風ふけば 花ぬきくたす瀧の白糸
                      西行法師
      雲きゆる那智の高根につきたけて ひかりをぬける瀧の白糸
                      法師良宝
      おもひ出る袖さへいつもかわかぬは なちのお山の奥の瀧つせ
                      藤原爲平
      落ちたきつ岩うつ瀧の那智こもり さてや心は猶やすむらん
                      慈 鎭
      かさねても流れもたえぬ三熊野の 濱ゆうくれの那智の瀧つせ
    瀧の落口の左右にほら貝石、つりかね石あるよし、瀧襌定をすれば、花山

    院三年の間こもり給ふ、庵室の後ろ二の瀧三の瀧あるよし、折悪しく逗留
    はせしかとも、日々雨ふりければ、襌定もかなはざりし也、諸堂古跡なれ
    ども雨ゆへに得たづねざりしなり
  二ノ瀧は高さ三十間ばかり、本社西北二十二丁計
  三ノ瀧は十間計り、本社西北廿五丁計
    是より六町のぼれば随身在す、東門の前けはしき石階あり、切石にあらず
    集めたる石也
  東門 随身至て古作と見ゆ

  本堂 癆逡辰巳向なり
  如意輪六臂観音 當社の本地なり
  鰐口 大さ、さしわたし五尺
    はる/\参詣すといへども開帳とては叶はず、前立の佛もあらねばたヾ御
    厨子のみ奉りて、思ひけるは四とせ前に、我難波に出給ひて開帳ありし時、
    よくも度々あゆみをはこびし事と、いとヾありかたく覺えけり
  當山の本社 十二所權現並地主神之社
    第一  地主權現 大已貴命
    第二  證誠殿  国常立命

    第三  中御前  伊弉諾命
    第四  御本社  西御前伊弉冊尊
        号結宮
        自第二殿至第四殿熊野三所權現
    第五  若一王子 天照太神
        以上是上 五社
       右五社は辰巳向以下八社は丑寅に向也
    第六  襌師宮  忽穂耳尊
    第七  聖宮   瓊々杵尊
    第八  兒宮   彦火々世見尊
    第九  子守宮  葺不合尊
        以上自若一王子至子守宮号五体王子地神五代也
     
    第十  合殿 国狹土尊
「一万宮 十万宮」
    第十一 勧請十五ヶ所 泥土煮尊
    第十二 飛行夜叉 大戸道尊
    第十三 米持金剛 面足尊
        自十至于此号四所明神

    満山護法善神社
        大黒天 大日如来 役行者
           此三体絵圖の如合殿也  

            
(本社本堂之図)

     折しも雨しきりにふり続ける故、方向さへわかりかね、諸社諸堂旧跡など
     尋ね得ざればこヽにもらしぬ
       那智山縁起に曰く

     人皇十二代景行天皇の御宇、裸行上人とて權化の人あり、初は神倉山に在
     て練行の功を積み給ひて、夫より那智山に来り給ひ、仁徳天皇の御宇に凡
     そ七百年餘年経て朝には瀧の水に身を清め、夕には岩窟に坐し練行怠り給
     はず、或時瀧壺より御丈八寸の尊像顕れ出給ふを、裸行上人御手に取らし
     給ふ、しかれども其頃我朝には佛法弘まらずして何の像といふ事知る人な
     し、今の本尊の地此の庵を結び、彼尊像をすへ奉る、權現鎭座の後は裸行
     も入滅し給ひ、時の人は庵室の跡のみと云傳へたり、其後聖徳太子より佛
     法弘まり、生佛といふ人宿願の事ありて、權現の宝殿に通夜ありけるに夢
     中に答へて曰、むかし我當山の瀧壺より出ける尊像は如意輪觀音也、今庵
     室の跡に石を重ねてあり、抑も我朝の補堕落山とは此山なり、觀音の利u
     に起へたるはなし、此山は本朝第一の霊地なり、いそぎ此旨を帝へ奏し一
     宇を建立し聖主天長地久の守とすべしと、新たに霊夢を蒙り、急ぎ帝都へ
     奏し奉りしに、帝即本堂建立し給ひ、御丈一丈の坐像の如意輪を造らせ給
     ひ、彼瀧より出現の八寸の尊像を、御胸の中に納め奉り本尊とし給ひ、代
     々の帝御尊敬あさからず
       或書ニ曰
     延喜式神名帳に本宮新宮を載せて那智を不載、本宮新宮に禰宜祝部ありて、
     那智には沙門優婆塞のみありて禰宜なし、然れば後世浮く屠氏觀音安置の
     後、權現を勧請したるか、又那智の日記には孝安帝三十年、裸行上人初め
     て建立し、其後空勝上人即善上人相続て十二所の神殿を建立すといへり、
     此説甚だ信ずるに足らず、いかんとなれば孝安帝の頃佛法未二傳来一上人号
     あるべからず、其外社僧の傳説まち/\なれども、皆信ずるに足らず
         花山法皇此山に御参籠の時の御製に
       木の下を住かとすればおのつから 花見る人になりにけるかな
       石はしる瀧にまかひて那智山の 高根を見れば花のしら雪
         風雅集雑に那智山に花山院の御庵室の有りける上に、
         桜の木の侍るを見て、住家とすればとよませ給ひけ
         る事をおもひ出られて
                      西行法師
       木の下に住みける跡をみつる哉 那智の高根の花を尋ねて
         西行法師那智の瀧にてよみける歌に
       身につもる言葉のつみにもあらはれて 心すみぬる三かさねの瀧
         後鳥羽院御製
       またヽくひ那智の御山に澄月の 清き光りに松風ぞ吹く
     那智山逗留の中、四月二日の日雨少しやみて見へけれど、妙法山へ参らん

     とて出行く、大川の方へは出ず大雲取道
     と云う奥の方より登りゆく、此山より妙
     法山は南の方にあたれり、坊より五六丁        
(道標の図)
     行けば出茶屋あり餅賣る、それより一丁
     あまり登れば、木に書きつけて立てる標あり
     爰より廿五丁登り行く、道より左に那智の瀧ひきく見る也、道はさまで難
     所といふにあらねど、廿五丁の間に茶店もなく登り行くのみなれば、心安
     き道ならず痰フかげを行く所多し、岨道にして右の山にそひ行なり、左は
     谷を見下しける、妙法山近くなれば道のかたわらに樒多くあり、此志き 
     みの事にいろ/\の奇説あれどもあやしとするに足らず、しきみは此所に  
     かぎらず大雲取の那智近き所にもあり

  妙法山 阿彌陀寺 本尊阿弥陀如来
    此寺はさしてたうとくも思はれざれども、俗に女人の高野といふ山なれば、
    熊野に詣でん人は尋ねとふべき所なり、此寺に俗歌あり
      くまの路をものうき旅と思ふなよ 死出の山路も思ひしらせん
    本堂の右を奥へ半丁計入行ば、左に應照上人座禅の石あり、此石を鉢らた 
    しと云ふ、此処より遙南海の廻船に御鉢をこひ給ひし所なりと云、右の石 
    には上人火焼に入り給ふ所とてあり、爰より又少し奥へ行けば
  弘法大師堂 おくの院といふ
    経木納め場は大師堂の前にあり、人々本堂にて経木に法名を書きしるして、
    爰におさめ水を手向る也
四月三日 いまだ雨はれねども那智を立出る、鳳瑞尼喜光尼も今朝出立、伊勢のか

    なたへ行とて別れぬ、おの/\古郷へ皈
    らんとて大雲取さしてゆく、雨もはれ間
        (道標の図)
    勝になる、きのふ妙法へゆきし道にある
    此木の立たる所より右大雲取へかヽる也、小口川迄四里也、其の標木より
    左右草木志げりたり、樒もまヽあり石楠花あり、左右篠原おほくうねりを
    いくらも越て三十丁ゆけば茶店あり、宿もすれど板間むしろ敷きにてむさ
    し、船見峠まで廿五丁、爰よりも草木左右にしげりあり、篠原多し船見ま
    で人家なし
  大雲取 船見峠かいもち茶屋へ四十五丁、茶店一軒あり、宿もすれど板間むし
    ろ敷にてむさし
    爰より船見ゆる所なれどけふは雨なり、水気立ふさがりて見えかたかりし、
    是よりも又人家絶てなし、道の間は前の如く二三本丸木をからみたる橋を
    二つ越て、谷水の落口あまたあり、すべて大雲取の間は深山にして鳥さへ
    まれなれば、人家を遠く見る処もなし、左に記し置ける茶屋のみなり
  大雲取かいもち茶屋 大雲の中なり地蔵茶屋へ十三丁許、かいもち茶屋宿もす
    るよしなれど、板間にむしろ敷にてむさし、此処は船見峠の地よりひくけ
    れど大雲取四里、中那智より二里の処にて小口川へ又二里あり、是よりも

    又人家なく、谷川にそひ丸木二三本からみたる橋を越へて
  大雲取地蔵茶屋 石くら茶屋へ十二丁計、宿もするし蜂蜜を取る、前に石地蔵
    多くありさやあり、爰より同じく谷川をそひて下る、人家多し
  大雲取石くら茶屋 ゑちぜん茶屋半里、爰より下りて上りゆく、道けはしく甚 
    わろし、土橋一つ越へて岨つたひ道ゆく
  ゑちぜん茶屋 小口川へ壱里、楠のくぼへ廿八丁計、此茶屋より下りを胴切坂
    といふ
  大雲取胴切坂 此坂は峯つたい岨つたひ一文字の大下りなり、松原あり人家な      
    く右二丁計下れば出茶屋あり、土間なりろうじんわらじを作り居る、此処
    より左右ふかき所を曲りて六七丁ばかり下れば
楠のくほ村 小口川へ廿二丁計宿多し、小口なりといつはりて旅人をとむる、此村
    は山の岨にある村にして平地なく、人家一軒つヽひらきたる地なれば、一 
    軒通れば坂を下り、又一軒通れば坂を下りする事十五丁ばかりなり、人家 
    いつれも左の山にそひてたてり、二軒と続きたる家はなし


      近道といふ間は           右ハ近道左うけ川
      二三丁の間也              九十六丁(標識の図)

    左り本道けはしき坂を二三丁上り、夫より又岨道十六七丁下り行けば、石
    堂の茶屋なり
  小雲取石堂茶屋 松はたへ卅六丁
「さはのたは茶屋とも云」 此処小雲取三里の中にして
    桜茶屋より地ひくし、是よりも岨つたひのぼり下りすべて松はら、瘢゙もま
    ヽあり、大雲取の道よりまさりたる難所もあり、十七八丁ゆけば松はた也
  小雲取松はた 山中茶屋とも云、うけ川へ卅九丁茶屋あり宿もするよし也、爰よ
    りは岨つたひ、松原にて瘢゙諸木のしげりたる所もあり、のぼり下りしけく
    しつヽ、うけ川村へ下る
うけ川村 人家多く大なる村なり、村の中に小さき川をうけ川と云あり、此村へ少
    し行けば小川あり、水きわへ下て四間ばかりの板ばし越へ、同じく村の内
    にすこし行ハ
  うけ川 本宮へ廿五丁 湯峯へ卅二丁
    川端四五十間ばかりなり、川原にて向ひの岸浜まで舟渡し」夫より湯の峰
    へ一里なりと云へど本宮へ廻りなり、すくに行けば卅二丁なり、廿丁目に
    よこせ村と云ふ処あり、うけ川渡りにてもやはり請川村にして人家多し、
    爰よりハ右に九里八丁熊野川を見て、所々にて坂をくたり行村なり、それ
    より河原へ出、川原つたひに行くこと二丁計にして右へゆけば、渡しわた
    りて本宮へいたる道なれど、湯峯へ心ざし左りの山へ登り行、山の原まで
    右に本宮を見やり見下して、雲取にも少き壁面をのぼる如き岨道を五六丁
    登る、しかも道至りてせまし、のほれば山の原なり、夫より湯の峯までは
    大下はなく、平地の如き道のおほけれど、少しづヽのけわしき下り所々あ
    り、岩角多く道あしく、すべて深山の岨つたひにして、右は山にそひて谷
    を左に見下してゆくに、横瀬村まで人家絶てなし
  よこせ村 うけ川より廿丁、湯の峯へ十二丁
    熊野路はすべて桧笠をきる也、大小二通りありて、かたちは圖の如し、あ
    しろ打し大なるをゑかさといひ、小なるを小かさといふ、小かさ大き竹の
    皮をかさの如し、ゑかさは大さ三尺計也、此笠の事こヽに尋ねし故爰にし
    るしおけり、実は桧の笠にあらずして、かハぜいといふ木にてこしらへた
    りと也」
    熊野路はすべて煙草を呑むにきせるを用ひず、木の葉かつらの葉など巻い
    て、圖の如く煙草をつけて口にくはへながら往来する、そのさまいとおか
    し、上かたにて用ゆるきせるなどもまれは持たる人あり、此のほとりにて
    こしに上方きせるさしたる人ありし故、たづねしかばその人答へていふ、
    山かせぎ農作などする時は、きせるをばくはゆれば咽喉など突く事もあら
    んかと危し、一つには葉にて呑時は味ひようし、きせるにては味ひあしヽ
    とかたりき、さて此よこぜ村より原


         (煙草の図)

    つたひ岨つたひにて湯の峯にいたる
  湯の峯 湯川へ二里半、かきはら二軒、茶屋へ廿丁
今四月四日天気よく此地の清水屋止宿、一人弐匁五分旅籠なり
    此地は湯の峯といへども、まことに深山幽谷とて、狭き谷合の川の東西む
    かひにて、人家立ならびて入湯の人の宿を世の業とする也、川の東向ひは
    藥師堂・湯舟等あり、川の西むかひには二重の塔なとあり
  藥師堂 南向藥王山東光寺と号す
    鳥目百廿四銅にて開帳せし、湯の花自然と石の如くかたまり藥師如来とな
    りたるとて、いと殊勝なる佛体也、脇立あり弘法大師の水といふ
  二重の塔 辰巳向 飛彈のたくみの作といふもさもあるべし
    藥師方便の湯とて、此谷川の間すべて湯わき出る、川上よりは水ながれき
    たる也、湯舟を小屋の内にかまへたる所三所並ぶ、東はとめ湯・中と西と
    は入込湯なり、とめ湯といふは一人西にて湯料一日に鳥目六銅なり、旅人
    の一夜とまりに一人鳥目三銅なり、外に非人湯といふ所あり、是は無銭に
    て非人の類或は難病人入るべき湯なり
       
壺湯ハ川中に壺の如く凹ミタル岩穴ニ湯ノ沸出ル所ニシテ入浴ノ所物ヲ煮ルト
          コロハ異ナリ(芝口)

    川の中に一所壺湯とて、井筒の如く木にて組かこひたる所あり、其所に竹
    の子其外菜類ゆで物は何によらずつけ置は、暫にしてゆだる事也、食物の
    類は此の湯にてゆでたるよし、宿の下女かたりけるをきヽてこヽあしかり
    し也
       中根黙庵曰壺湯ノ咄異ナリ、壺湯ハ里人杯入浴ス、湯ノ花ニ幾度カ変ル、物ヲ煮
         ルハ下ノ湯口ノ湯溜ナリ

    扨入湯する湯舟へ湯を入るヽは、谷川の下より左に記す絵圖の如くにして、
    上へくりあけ川上より流れ来る水を筧にしとり、湯と水と自然とむめ合せ、
    入心よく湯かげんになり、夫より又筧をつたひて湯舟へ入るやうにしかけ 
    あるなり、此谷川の中湯のわきかへるさまは、さながら地獄の釜とやらん
    もかくあらんとおもわれける、朝などはむかひのさしも見へわからぬほど 
    に湯気立て、いと心よからず、すべて湯わきけるゆへ湯の花など石にへり
    へり付て、殊に以てむさ/\としたり
四月五日 雨もふらず出立
    爰より本宮へ行く道は山へ十丁登れば車峠といふあり、そこに小栗判官兼
    氏蘇生したる塚とてあり、そ□湯の峯まで車にのりきたりて入湯させしが、
    不思ぎと本復したるゆへ、此所に車をすてたるゆゑ、今の世のまで是を車
    塚といふとかや、石塔に梵字あるよし、そこより十五丁ばかりにして、下
    れば本宮なりと人のかたりしまヽに書き記せし也、扨湯の峯より直ぐに山


           (湯の峯の図)

    へかヽり岨つたひ・原つたひけはしき所多し、二十丁にしてかきはら二軒 
    茶屋にいたる
  かきはら二軒茶屋 この処は元来し道にて本宮へわかれゆきし処也、此のさき
    はなべわり峠・みこし峠などより次へ/\と見れば、道の日記朱にて志る 
    しあり    

    又若山より粉河貝塚までの間の記は、此記にしるしたり、うらをみるべし

    若山より粉河廻り貝塚までの日記 左に
四月十五日 終日天気よし
    若山の宿板屋町米屋茂兵衛方、立出て総門を東に出、北へゆけばきの川に 
    つきあたる、かたかわ町なりかけ作りといふ
  かけづくり 寄合橋より十一二丁なり八軒茶屋へ三十町ばかり、片側町にて宿
    若山より粉河廻り貝塚までの日記 左に
    あり、左はきの川にて川端松原也、爰より東へ行く、此処より岩手渡し場
    までハ左にきの川をちと遠く見、ちかく見川にそひゆく道なり、なみ木松 
    原大方に立ちつヾきある。かけ作り二丁ばかりゆき人家はなるれば、左右 
    ともに並木松原になり、右は山遠く左の方山ちかからず、遠山も遙に見ゆ、
    人家左右遠く見田畑ひろし、又五丁ばかりにして人家あり三軒家と云、有
    本村の内也
  三軒屋 左側に庵の茶屋あり、此所人家少しあり過れば松原立続、左の方三丁
    ばかりかたへにたヽ村あり
                          
たヾ村とは太田村を云フカ(芝口)
有本村 此村の人家左に見て行は、夫れより左右七八丁十丁ばかり、或は廿丁ばか
    りへだて、人家見る所もあり遠からぬ小山もあり
  一里塚 若山庚申堂より一里也、此塚は松はらのなかにあり、左に加納村を見
    やりて松原はなるれば
  八軒屋 ゆり村へ一里十丁計・岩手へ二里半、人家立ちつヾき瓦葺多く宿茶屋
    あり、左右とも十丁或は廿丁ばかりに山を見る、高野山も遙に見ゆ、右土 
    手の松原を見、きの川はたへ出八軒屋の渡わたらず、粉川へこヽろざして
    土手の根にそひゆく、土手の上よりゆく道ハ本道のよし、この八軒屋のわ
    たし渡れば大阪へ行く本海道なり、十丁ばかり下をゆき夫れより本道の松
    原へ上る、いよ/\東をさして行道なり、左右並木松の裾に並木垣の如く
    しげりたる所あり、その外は右のかたはゆあせ村といふ、人家ありそこを
    通れば並木松はら左りばかりなり、右山四五丁田畑ひろく人家まばらに見
    ゆ、左りは田畑きの川つたひ人家見ゆ、夫よりあゆみゆかば、左側松原下
    に若木の生垣を竹にてゆひつけたる処あり、一所は當国の家臣安藤氏の花
    はたけなりと答へける、此の間は六七丁ばかりにして籔の所あり、籔はづ
    れに一里塚あり
  一里塚 若山より二里の塚なり
    此塚別に高からずして一里塚とも見へず、されど右側には松なき処にただ
    一処あるにてしる也、右山一丁二丁田畑人家あり、左りは山の根まで十丁 
    十四五丁、田畑廣く人家見ゆ山はひくからず、此間もすべて松原つヾきに 
    して人家処々田畑へだてヽありつれども、いかなる村といふ事を尋ぬべき 
    里人も来らず、八軒屋よりゆり村堤六十丁の間よき並木松ばらながら、茶 
    店もなければおのく精つき松原もうき事におもひてゆく       
ゆり村 岩手へ一里十五丁ばかり田畑人家多し、左山廿五六丁あるひは三十四五丁
    に見ゆ、田畑ひろく人家遠近ともおほし、爰より行先の堤より松原、此節
    樋の負信にて右の村の中道を三四丁まわりて行く  普請
        是迄名草郡是より那賀郡
    ゆり村より松原五六丁目に馬次むら也
  馬つぎ 駅と書か 人家立続き宿茶屋多く右山の根まで三五丁、田畑あり左は
    山廿四五丁あり、是より堤はあらず二丁計ゆく
みつや村 人家立続きあり六七丁ゆけば
新庄村 此村の口に一里塚あり
  一里塚 若山庚申堂より三里なり、是より左右とも並木松原、人家まばらにし
    て宿茶屋あり
    右山まで一二町左山廿丁計、人家松原など遠近にも見ゆ
  下新田 家居立つヽけども至てむさき村也
上三毛村 人家多し、出はなれ左ばかりの松原など土手を六七丁ゆけば、左右道の
    かたはらひくみに二丁計りのあいた籔あり、そこを通れば人家立つヽき、
    村の名といへばいはでといふ
磐 手 はたの上村へ一里、粉川へ二里半
    この岩手は奥州と此処と日本に二所の名所にして、奥州の岩手は里山社関 
    をよむよし、此岩手はかりをよむと云
        古 歌          夫木 左近東中將具氏作
      咲ぬとはいはての里のいはねとも よそまでしるく匂ふ梅が枝
         新 勅 撰 よみ人しらず
      見ぬ人にいかでかたらん口なしの いはでの里のやまふきの花
    岩手のわたし場は吉野・高野のふもとより下る船着の駅にて、宿茶店あり、
    酒肴賣所多く賑しき処なり、此処は行とまりにてすくにゆけは山也、左へ 
    きの川をわたる
  きの川 岩手の渡し川幅二丁計
    わたれば同じ岩手村にして人家多く、川向ひとはかくべつ物しつかなる地
    なり、此処を里人本岩手なりと云、わたし船着きたる所より左の方松はら 
    へさして行ハ根来寺道へ、根来寺道は八軒屋のわたし渡りても行く道ある
    よし、いづれちか道といふ事も聞さりし也、右山四五丁左山三丁餘に見へ
    田畑廣し
岡田村 板はし越ゆ
    右山廿丁廿五六丁に見、左二丁計に畑へたてヽ人家あり、山は十七八丁に
    見、根来山左に見ゆ
下いさか村 人家多し、左右十八九丁に見、右に并天堂森あり
中いさか村 羊の權現社左にあり宮居よし、朱鳥居・鐘樓あり、森のかけを通り行
    みぎのかた紀の川を半町ばかり見ゆ
はたの上村 粉川へ一里半紀の川端へ出る所あり
    八幡宮左にあり宮居よし、鳥居鐘樓あり、松と楠との森也、このかけを行
けや村 右川向ひ山の裾まで人家あり、左田畑高みなり、少し坂登り板橋越ゆ
上野村 人家多し、右川へたて山近し、左廿四五丁人家遠近に見ゆ、右道の傍ら木
    かき陰をゆく、細き板はし越ゆ
内田村 人家処々に多し、土はし越
    并天社森あり
    左のかた山二十丁ばかり、右山四五丁畑ひろし
  山王權現社 宮居よし鐘樓あり、大なる森のかけをゆく
  黒土 茶屋あり、右高き山の根まで六七丁
  かさかき山 楠正成城跡右にある也
    此二つの山を両門山といふよし、土人かたりき
かうだい村 右前に同じ、左小高き所、人家田畑あり
  八幡宮 左にあり宮居よし、朱鳥居鐘樓あり、此社の森のかけをゆけば、右山
    七八丁人家あり、左山廿丁はかり人家あり
志ま村 左右前に同じ
  左觀音寺 この觀音門前石階たかく、その上二玉樓門あり、かヽりよし
ふけだ村 風の森右にあり、風の森元は風市の森なるへし、粉川村も元は風市村と
    云しよし
        家 集          公任卿
      いとこえも花のあたりはあたなれど いかに散るらん吹風の森
        夫 木 抄         鷹司院按察
      恨みしな風の森なる櫻花 さこそあたなるいろに咲くとも
まつみ村 人家多し右山四五丁に見、左岡近く山廿町はかりに見野道を行、坂を少
    しのぼり板はし越へ、左右岡に松三十本ばかりつヽあり、粉川の明神六月 
    十八日神事には、此処へ神輿出たまふ所とぞ
        是迄那賀郡是より伊都郡粉川也
    すくゆけは    粉河は那賀郡なり
粉川村 大阪へ十四里・若山江六里・高野へ六里・愼尾へ六里・貝塚へ六里・木本
    へ三里・神通村へ二里、町家にていと大く諸商人多し、繁昌の地なり家居
    よし、此村むべと云
今四月十五日終日天気よし、南町大阪屋長三郎方止宿、一人弐匁旅籠、此宿は大藤
    と云が通り名のよし、寺の正面すじにてよき宿也
    粉川團扇名産也、此團扇や屋一軒ばかりにて直段は一厘もまけず、若浦の 
    芦をほねに作りたる團扇也、一本につき五分より銀一枚・金一匁くらひま 
    であるよし也
粉川寺 号補陀洛山施音寺
    宝亀元年建立 願主大伴氏
    橋門前にあり、長六間・幅二間きぼうしゆ付
  二王門樓門也 南向
  童男観音堂 宝亀元年弘仁帝の御宇、池より出現し給う佛像也
  脇立十六羅漢 此観音堂彩色彫物にて美麗成事也、むかし秀吉公朝鮮征伐の時 
    取来りしよしにて、外にもあまた彫物ある也、江戸にありしをゆへありて 
    こヽに納めしと云
  楊柳の井 堂の前に井筒のみあり
  童音観音出現之地
  上宮太子堂
  阿弥陀堂 あらたに建たる堂也
  順礼札納所 六角堂なり
  本堂 南向方
  本尊千手観音 御肩に緋袴をかけ給ふ也、前立いなけれど後堂に御うつしあり、
    むかし近衛家の御簾中とぞやらんに、靈驗ありしより本堂のかたはらなる
    人かたりしかとも、詳しく尋ぬるにいとまあらざりし也
    本堂もむかしは小さかりしが、百年ばかり前に焼失し、其後は十五間四面 
    の二重屋根結構なる堂となりしと也、本堂の人内陣へ入らん事をゆるしけ
    る故、内に入て拝し奉る、前立は佛躰にあらず、弘法大師の夢に見せ給ふ
    阿字を、大師みつから此梵字のかたちを作りたまひける、前立とす
  脇立廿八佛
    内陣の莊巌は那智・紀三井寺にまさりてたうとし、粉川大明神本堂のうし
    ろの方、高みにあり大伴孔子古を祭る也
        観音靈驗の御歌左に
      花衣からさき山に色かへて 紅葉のほらの月を眺めよ
    風猛山は觀音堂のうしろの山なるよし
        玉 葉 集
      人の名のそこの心にこれるは おやのなかれにすまぬとぞしれ
    此歌は粉川寺の別堂たりける僧、不調法なる事ありて、彼寺にも不住なり
    て侍りけるが、年経て後熊野に詣て粉川寺の前をすぐる時、ふしをがみ涙 
    をながして
      見る度に袖をぬらして過るかな、親の流れの粉川と思へば
    とよみ侍りける、御返しとぞ夢に見えけるとなん
          風雅集に
      補陀洛の海をわたれるものなれば みるめは更におかしからぬかな 
    是はある人盲たる子を具して粉川寺に詣て、彼の子を膝にすべてなくく
    祈り申すとて
      ふだらくの海に生きたるものなれば この見るのをは給へとぞ思ふ
    とよみてまどろみけるを、夢に觀音のしめし給ひけるとなん、かく見給ふ
    事などは世の勅撰集にも見え侍るよしつたへきけり、此外の靈驗はあけて
    かそへかたし
        當寺縁起日
    むかし紀州那賀郡に獵師あり、其名を大友孔子古と云、ある夜鹿を射るに
    山中光あり、大伴ふしきに思ひてやうく其処を尋ねかヽる、瑞光を見る
    事宿縁ありやと、忽悪念をひるへし則其処に草庵を結ひ、佛像を安置せば
    やと思ふ折しも、一人の童子一宿をかりて甚よろこび、主に何にても望み
    はなきやといふ、大伴の曰此草庵に佛像を安置したく思ふ也、しかれども
    佛像を尋ねわづらふと云、童子曰我つたなけれど佛師たり、いかなる願望
    なりや、大伴のいわく我二つの願あり、一つは法界衆生の爲、二つには我 
    子今奥州の國司に任官せり、其安穏の事を願ふに童子の曰く、我此草庵に 
    おひて十七日に佛像を刻まん、其間此処へ来る事勿れ功終らば告む、八日 
    の暁大伴行きて見るに人なし、夫より此草庵に入て見るに、千手觀音の像 
    おはします、是より弓矢をすてヽ尊像に仕え奉りて修業す
四月十六日 宿を立 終日天気よし、粉川寺の門前左へさしてゆく
いかけ村 左山廿四五丁、右山十七八丁田畑ひろし
  北なかた 左右前に同じ、人家遠近に見ゆ、少しづヽ登りゆくかた也
志の村 峠まで廿五丁
    きのう見し南門山をうしろに見てゆく、樫の木のしげり合たる下陰を一丁
    ばかりゆきぬけ
  志のヽ宮 左のかた一丁ばかりに見下す処にあり
  さくら池 右にあり大なる池なり、南龍院様初めてほらしめ給ふと云
    左紀の川両門山を遙に見る、夫よりさくら池にそひ行事三四丁、右左前後
    家も見えず、岨つたひに登りゆけば
  志の峠 松ありて人家なし
    此山すべて樹木まれなり、峠より若山正面に見る也、爰より岨つたひに谷
    川にそひて下る、谷川を石つたひに越る処三ヶ所、板はし一ヶ所ありした
    ひに谷へ下りく、下れば谷川に橋あり長十六間・幅一間らんかんあり渡れ
    ば
神通村 (むべ共云)粉川より爰へ二里、大木へ一里
    此処ハ谷合のせまき地にして、人家少し茶屋あり、藪のかけを過て五六丁
    のぼり行は峠ありて、左右より大岩出たる処、是紀州と泉州の境なり、向 
    ふにあさしか村見ゆる、すべて松多し
  熊取谷 あさしか村
    右田畑へだて二丁ばかりに、此村の人家あり家居多し、左右はけ山の岡山
    おほし、道に人家なし
同谷御門村 人家多けれども三四丁へだて右に有、田畑ひろく道ほとり家なし、左
    は岡山近し         
同谷大くぼ村 粉川より四里半、貝塚へ一里半
    茶屋一間あり、大木より爰まで茶屋一軒もなし、此村の人家は左の方少し
    入たる所にあり、右岡山五七丁に見ゆ田畑廣し、左岡山ちかし田畑有、高
    き山は二三里も遠くなりたり、岡山はすべて多き処也、餘木まれにして松
    樹いと多し、左右に池ある所を岡へ登れば御さかひ也
        是より鶴原郷
  新家 向ふ少し左の方西の海一面に見ゆ、是より海したひくにちかくなる也、
    此辺より石道多し、野路を通り右は人家、藪にて細き路の処を通れば
鶴原郷 かいた村
  地蔵松 貝塚へ十七八丁と云
    此松太さ五抱あり、地より二三尺上より枝わかれて見事なる松也
    左は海十七八丁に見ゆ
  板はし 長五間・幅四尺計
        是迄紀州伊都郡 是より泉州日根郡
    爰より少し下りて、谷水を越へて川を右に見おろし、又岨つたひにのぼり
    下りすることしげし
  犬鳴山不動道 右道のかたはらに不動札所あり、そこより犬鳴山へは十丁ある
    よし、夫へゆかずすぐにゆけば、谷水の落口所に十八丁行けば
  大木 大久ぼ村へ一里半、人家多し宿茶屋あり
    瀧大明神左にあり宮居よし
    右山の根迄二丁ばかり、田畑あり左山に添ゆく道也、夫よりひくき山の間
    を行、左に池あり又右に池あり土はしを越ゆ、此道より鹿の用心とて田畑
    の外塀の如く土を積上げたる処はこヽかしこにありたり
    板はし長さ十一二間越ゆ、左右は山にて松しげりたる処おほし
つちまる村 人家多し、茶屋なし
    村はづれ左右木茂り合たる陰を一丁はかり登りゆけは、夫よりすべて池多 
    し、左右ははげ山すがためづらしき岡山にして、数おほく遠近に見ゆ、左 
    の方西に山のあいだより海見ゆる処あり
    夫より七八丁ゆけば岡山の間を通る、左右しげりたり
近義庄おほぢ村
    右に二俣松の大木あり
近義庄窟田村 田はたひろし
  近義 こきの川 橋長十一間わたれば
はたけなか村
かじ村 人家多し海近し田畑廣く
        是迄日根野郡是より南泉郡
    こぎの川を郡境といひし里人もありしも、いづれか是か糺ざりし、爰より
    貝塚標石の処へ出て町へ入
今十二日 終日天気よく、橋本屋治右衛門方止宿よき宿也       
四月十七日 雨ふりぬれども出立て、目出度難波の里に立かへる、住よしより空も 
    心もよくはれたり、是よりおくは我ゆかざりし道ながら、同じ熊野へまう
    ずる路なれば、ふるき人の書てのこしおきたるを、ひろいて記しおけり
      一、貝塚より若山へすぐ道
      一、高野越路
      一、八鬼山越路
      一、大辺路海道
「おほへちのへちの字すみていふ也」
    貝塚より若山へすぐ道ハ凡八里
    貝塚の町を出て右に標石あり         (道標の図)
    爰より七丁はかり行けば

澤 村 永代橋 西南へわたる土はし也 
  ミで川 土橋越ゆれば茶屋二軒あり、たこ茶屋といふ
  鶴はら 標石あり                
(道標の図)
  是より左へゆく

  此間坂あり、わたしあり
佐野市場 貝塚へ十八丁、爰より安松ハ一里此間松原あり、道の東に蟻通明神あり
安 松 かし井へ八丁
かい井 信達へ廿丁
信 達 山口へ三里
    坂あり紀泉の境
山 口 山中へ一里半
山 中 若山へ一里半
    此間坂あり、わたしあり
若山へ入    
        高野越街道
    高野大門より本宮へ凡十七里半也、是を小辺路と云(又は十六里余とも)
高野大門 大瀧村へ一里
  路くる峠 過半山の峯を通る、杉松栂樅等の大木也、杣入さる深山也
    川はしあり大瀧川と云
大瀧村 宿あり、水ヶ峯へ一里
    十四五丁行、道二つ右へ行へし并財天村と云
水ヶ峯 茶屋あり宿もするよし、大股へ二里
    村はづれに弘法の清水あり、十丁はかり行、道二ツ左へ行くべし
  たいら辻 家一軒あり
    谷川の前に茶店一軒あり又五六軒あり、是より登れば難所なり
大 股 宿二三軒うへにしへ一里又二里とも云
うえにし 宿あり水かえへ半里
    大師封し給ふ水あり、堂あり東へ続き十津川也、五十本鑓とて御赦免所あ
    り
松 平 神の川へ半里
    又一人の本には町たひらと書けり、それがきヽあやまりなるや、茶店前に
    石二つあり、大塔の宮こしかけ給ふ石なり、道二すじあり左くまの道、右
    せのふ道、此間大川あり舟渡し、左の方に三位中將維盛の寺あり、此下り
    坂、甚けはしく難所なり
神の川 宿少しあり、橋むかひ二丁計行、茶店ありよき景也、川向に村あり、杉の
    せと云川につき行は宿五六軒あり、川に舟渡す
みはら村 宿あり又一人の書たる本には三浦村とあり、いづれがきヽたがへにや
  みはら坂 五十丁のぼる
  やぐら峠 八十丁下る難所なり、茶店あり
深きり村 宿少し、上矢倉とも云
  矢倉 下矢倉ともいふ、宿有柏崎へ半里
中むら 宿少し
    是よりやけ尾谷と云、惣名を西川と云、天神の橋と云ふはし是より難所
  たしはら 宿少し
柏 崎 宿二三軒、やないもとへ二里
    まぎれ道多し、尋ぬべし
十津川村 鑓四十五本公儀より預り居る、元来五十本なりしが、故ありて熊野へ五
    本引と、由緒ありて直衆と云
    谷川はしあり
    左にやなか瀬村、酒うりあり
    大谷川 舟わたし
柳 元 七色村へ四里
    是より峠迄茶屋なし、下り口林下にて茶屋二軒あり

七色村 本宮へ一里半      ‖ 又一人の書のこしたる本に、柳元よりはてなし
    此処人家多し     ‖ 五十丁のぼり五十丁下る、柳本より十丁ばかり
    是より山路にて難所也 ‖ 行ハお松の茶屋、十四五丁行は三右衛門茶屋・
               ‖ 半里ばかりには市十郎茶や、本宮見ゆる
               ‖ 柳元より峠まで五十丁、下り坂にまきれ道あり、
               ‖ すく行くよし、左へ下り坂は舟場也、道しるべ
               ‖ の印紙東方にあり
               ‖八鬼尾谷 茶屋あり
    船なれば       ‖ 八鬼尾谷よりふし拝み舟渡しにのるよし、陸道
    是大峯川也      ‖ は殊の外ほそ道にて下は大川、青々としてすさ
               ‖ 夫よりは和歌山街道にて道よし
               ‖ 鬼が城
               ‖ 九鬼
               ‖ 右は紀三井寺道、左は本宮道
               ‖ 三軒茶屋
               ‖ 本宮へ廿町許
    高野大門より本宮へ十七里半、或は十六里餘と有、是非を不論

八鬼山越 山田より新宮へ三十六里半餘
 ○勢州度會郡
   山 田 川端へ半里、宮川へ舟渡し
       柳とも云
   川 端 宿驛、田丸へ一里半
     いたのヽ原 芝共 神明の馬場とも云、小松原也
   田 丸 新田 
   田 丸 宿驛、原へ一里
       紀州家臣久野備後守殿城下、左へ行けば熊野高野道也
   のしの村
     かのヽ松原 永きはらなり
   かの村 茶屋二軒あり
     松原
   原   宿少、大瀬へ一里半
 ○多気郡野中村とも
     原の大辻 大日堂なり
   なるか村 出口に大池有、之よき景也
     見つき峠 上り六七丁下り下町計
   大瀬原 宿あり栃原へ一里半
   千ヽ代村 柳平村
     無量山千福寺 十一面観音 聖徳太子作
       杉槇の見事成森あり
       谷川歩渉り
   とち原 宿少しあり栗生へ一里半
   神かせ村 宿少しあり
   上楠村 宿少しあり
   下楠村 同所
   栗 生 宿少、みせへ一里
   ならゐ村
   みせ(三瀬) 宿あり野後へ一里
     観音堂あり 行基作
     みせ川 舟わたし
       此川わたりてよき宿四五軒あり
   三瀬川村

     みせ坂
「上り八丁下り十二丁」 餘程急なり

 ○度會郡
   野 後 宿あり
     瀧原 太郎宮の社
   岩内村 
   はべか村 長者が野共云
     はべ坂 上り二丁下り五六丁
   かちじ村 谷川歩渉り、大水には左右まわる道あり
   安曽宿 柏野へ一里
       此宿出離れ七八丁行、右に瀧あり
   ふぢがの村
   柏野新田 川あり歩渡り、大水の時まわる道あり
   柏 野 宿あり こまへ一里
       川あり、かちわたり
   かいとり村
   長野こや村 宿少しあり、川あり
   さき村 宿少しあり
   こ ま よき宿あり、川あり歩渡り、間引へ一里
   ふとの村 川あり
   間 引 宿あり長島へ二里
   大津村 宿あり宮の下に小川あり歩渉り
   梅ヶ谷村 宿あり
     つか峠 上り三丁下り十八丁急なり
       峠に茶屋なし、此処勢州と紀州の境なり、田丸より国境迄十二里
   かたみ村
 ○紀州牟婁郡  
   にがら村 宿少し
     長島川 舟渡し
   長 島 三浦へ二里、湊にて町あり宿あり
       此処より木の本迄十六里の舟あり、日和あしくては難所なり
     一石坂 上下共五六丁宛
       峠に茶屋あり、島々目の下に見景よし
   古里村 宿少
     たうぜ峠 上下共六七丁つヽ急なり、峠に茶屋あり
   たうぜ村 宿少
     三浦坂 上下共七八丁宛急也、島々見えて景よし
   三 浦 宿あり長瀬へ一里
     はしかみ峠 上下共十四五丁つヽ、石高みて急也、峠に茶店二三軒有
   馬 瀬 粉ノ本へ一里半、入江に小川あり、宿有
   鳥井つき村 宿あり
   上里村 宿あり、安居村あり
   中里村 宿あり、入口に川あり
   ふなつ新田村
   ふなつ村 町家にて宿あり
   粉の本 町家にてよき宿あり、おわしへ一里半、川二つあり
     間越坂 上下共廿五丁宛、岩山にて難所也、峠に茶屋有り、岩尾觀音峠の左か
       た
   おわし 三鬼へ三里、町家にて宿あり、出口に川あり橋をわたす
   やこ浜村 宿あり川あり歩渉り
       おわしより半里行は八鬼山にかヽる、麓より十二丁目茶屋あり
   八鬼山峠 上り五十丁下り三十八丁、廿八丁目に茶屋あり、三十一丁目より上は石
       段にて殊の外急也、難所なり
     八鬼山日輪寺 峠より二丁にあり、九鬼と云浦見へ下り坂、石高く難所なり
     赤土坂 三十丁許下りて茶屋あり、是より廿余町下り石段、難所
   三 鬼 宿あり海辺なり、曽根へ二里
       此処より曽根まで内海にて一里の船渡しあり、舟に乘りて氣遣ひなし、歩
       行ば難所にて峠三つこゆ
   曽根浦 宿あり漁村なり、二鬼へ一里八丁
       是より二鬼島へ此山坂難所也
     曽根次郎坂 上り廿九町石段急なり、峠に茶店あり南海見へて能景也
     曽根太郎坂 下り三十丁石段急なり
   二鬼島 あたしかへ一里、町中にあい川とてあり、宿ありわろし、町中より廿丁計
       り                          
*あらしかならん
   大かめ坂 上り十七八丁下り十四五丁、峠より五丁下り茶店あり、下り急なり 
   新 鹿 宿ありはだすへ一里、入口に川あり橋かヽる
     大ふき坂 上り廿五丁下り廿五丁、峠に茶店あり、ゆるき石壇
   はざす 大とまりへ一里、宿不自由
       此間ゆるき山路十五丁、夫より上り十丁、峠に田村丸建立觀音堂あり、十
       丁計り下り南に鬼ヶ城、北の方にゑぼし山、西に大魔ぶたいとてあり
   大とまり 宿あり木の本へ半里
       出口に海の入江の川あり舟渡し
     木ノ本峠 上り十二丁下り十丁余
       峠に茶店なし、小とまりと云ふ所あり
   木の本 有島へ半里、町家宿あり湊なり
       此処濱に鬼ヶ城と云大岩あり
       是より有馬迄砂道にてあるきかたし
     中の大岩
   有 馬 宿無数、あたわへ二里半此間松原也
       右本宮道
     花の岩屋 伊弉冊命の御子火神を祀りし所といふ、大磐若経を納めし古跡也
     王子の窟 熊野權現御鎭座のよし    中根氏記 原本花窟王子 
     産田明神社 伊弉冊尊を葬り奉る所と云 窟ヲ木ノ本ニ入ル誤リニ付訂正ス
   志はらし村 茶店あり
     志はら川 舟渡し舟渡しを渡る、道はよくわたしはわたらず行道は砂濱、殊の
       外歩行しがたし
   いちぎ村 宿少しあり川あり
       志はら川と同断、舟わたし渡りてゆく道よく、此の間小松原
     子しらず川 舟渡し、しはら川に同断
   あたわ 不数 新宮へ二里半              
*数ずと訓ズベシ(芝口)
       川あり舟渡し前に同じ、此間松原也
   かヽりむ村 此間松原
   井田村 宿茶屋あり
   保田村
   うハの村 宿少
   鵜殿村の
     いもり村
   鳴川村 宿少
     音なし川 九里八丁の川末なり
       舟渡し一人前廿五文つヽ、木の本より此処迄の濱辺を、七里の濱とて片濱
       の荒磯なり
新宮着 勢州山田より三十六里半餘

               
         大 邊 路
「おほへちのちの字すみてよむ」
           田辺より那智までの外の濱つたひ路なり凡そ廿四里
     田辺  朝来へ一里半       朝木  富田へ一里
     富田  安居へ二里        安居  周参見へ一里半
     周参見 和深川へ一里       和深川(難所)見老津へ一里半
     見老津 江住へ廿丁        江住  里野へ廿八丁
     里野  和深へ三十一丁      和深  田子へ半里
     田子  江田へ半里        江田  田辨へ半里
X田辨ハ田並ノコトナリ
     田辨  二部へ一里        二部  二色へ十丁
     二色  閹ノ川へ廿丁       閹ノ川 姫浦へ廿丁
     姫浦  伊串へ廿六丁       伊串  神ノ川浦へ廿六丁
     神ノ川浦古座へ十丁        古座  津賀浦へ十七丁
     津賀浦 下田原へ三十丁      下田原 浦神へ一里
     浦神  莊村へ一里        莊村  和田へ十丁
     和田  市屋へ十丁        市屋  二河へ一里
     二河  橋川へ十丁        橋川  湯川へ半里
     湯川  天満へ半里        天満  濱の宮へ半里
     濱ノ宮 那智へ一里半       那智
         田辺より凡廿四里也







  川井不関子先生 寛政十年三月熊野詣へ同伴の林信章道の記也
  則川井より借りて寫し置也
        寛政十一未年六月吉日            影 馴 帝
  右復寫の上縣立圖書館へ納本す
        昭和四年十二月十九日            国 田 春 湖
  和歌山縣立圖書館藏寫本ヲ復寫す
        昭和七年七月十八日             中 根 七 郎
  右中根氏の寫本を借りてうつす
        昭和十五年三月廿五日            宇 井 縫 藏
  右宇井氏の寫本を借りてうつす
        昭和十六年一月五日             芝 口 常 楠
右芝口氏の寫本を借りてうつす
        昭和廿四年九月五日             清 水 長一郎  


   活字化を終わって
『熊野詣紀行』は寛政十(一七九八)年の旅行記で、今まで活字化した『熊野御幸記』や『中右記』・『熊野詣日記』等中世の皇族や貴族・将軍家の旅行記と違って、旅籠の宿賃や町並みの様子など記載あり、地名や文章が二十一世紀の古文書に素人の私でもなんとか理解しながら写本できた。三月四月は子供の転勤や、地元の行事など続き活字化が大変遅れた。今年は気候が十日〜二週間遅れ、今日高路は桜の開花満開春乱舞です。
        平成十七(二〇〇五)年四月十二日
                                 清 水 章 博
       
          使用ワープロソフトJUSTSYSTEM 『一太郎2005』For Windows Me & 98

熊野詣紀行上巻

※下巻の一部に、被差別部落表現や差別につながる記述が含まれているが、修正等を加える事により資料としての価値を損ない、また歴史的研究の資にすることを妨げることになるのを考慮し原文のまま掲載しています。これらに安易に手を加えるのは、差別問題を曖昧にしひいては問題解決の努力の回避や差別を温存する事になる惧れをもつやも知れぬと言う判断のもとに、原文のまま掲載した次第です。