熊野関係古籍     熊野古道

玉 津 島 行 幸  

*昭和17年に発行「和歌山縣聖蹟調査資料全」第三篇 より

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      玉津嶋行幸「和歌山縣聖蹟調査資料全」より

  聖武天皇
神亀元年
〔續日本記〕

神亀元年十月
辛卯
(五日) 天皇幸紀伊國。
癸巳
(七日) 行至紀伊國那賀郡玉垣勾頓宮。
甲午
(八日) 至海部郡玉津嶋頓宮、留十有余日。
戊戌
(十二日)造離宮於岡東、是日從駕百寮六位巳下至于伴部賜禄各有差。
壬寅
(十六日)賜造離宮司及紀伊國國郡司併行宮側近高年七十巳上禄、各有差、百姓今年調庸、名草海部二郡田租咸免之、又赦罪巳下、名草郡大領外従八位上紀直摩祖爲國造、進位三階、小領正八位下大伴檪津連子人、海部直土形二階、自余五十二人各位一階、又詔日登山望海此間最好、不労遠行足以遊覧、故改弱濱名爲明光浦、宣置守戸勿令荒穢、春秋二時差遣官人奠祭玉津嶋の明光浦の靈、認海手人大海等兄弟六人除手人名従外祖父外従五位上津守連通姓、
丁未(廿一日)行還至和泉國所石頓宮、郡司、少領巳上給位一階、監正巳至于百姓賜禄各有差。
己酉(廿二日)車駕至自紀伊國。

  稱徳天皇
天平神護元年九月
〔續日本記〕
庚甲(二日) 遣使い固守三關。
辛未(十三日)行幸紀伊國、(○中略)是日到大和國高市郡小治田(ヲハリダ)宮。
壬申(十四日)車駕巡歴大原長岡臨月自香川而還。
癸酉(十五日)過壇山稜詔陪従百官悉命下馬儀衛巻其旗幟、是日到宇治郡。
(十六日)進到紀伊國伊都郡。
乙亥(十七日)到那賀郡鎌垣行宮、通夜(ヨモスガラ)雨堕。
丙子(十八日)天晴、進到玉津嶋。
丁牛(十九日)御南濱望海樓奏雅楽及雑伎。權置市?令陪従及當國百姓等仕爲交關散位正八位上民忌寸磯麻呂獻銭百万、稲一万束、授従五位下。
己卯(廿一日)前名草郡少領榎本連千嶋獻稲二万束。
庚辰(廿二日)「○前略」詔日紀伊國今年調庸皆従原免、其名草海部二郡者調庸田租並免、又行宮側近高年七十以上者賜物、犯死罪以下皆赦除、伯但十悪及盗人不在赦限、又國司郡司郡領及供奉人等賜爵併物、有差(○中略)名草郡大領正七位上紀直國栖等五人賜爵人四級、「○中略」叙牟婁采女正正五位上熊野直廣濱従四位下。
癸未(廿五日)還到海部郡岸村行宮。
甲申(廿六日)到和泉國日根郡深日行宮、于時西方暗瞑異常風雨、紀伊守小野朝臣小贄従此而還、賜詔施卅疋二百屯。
乙酉(廿一日)到同郡新行宮
丙戌(廿八日)到河内國丹比郡、
辛卯(三日)(十月)「○上略」是日還到因幡宮

  桓武天皇
延暦廿三年
〔日本後記〕十二
延暦二十三年十月
壬子(十一日)幸紀伊國玉出島。
癸丑(十二日)上御船遊覧、賀楽内親王及参議従三位紀朝臣勝長、國造紀直豊成寺奉獻、詔日、天皇詔旨「良万止」勅命紀伊国司郡司公民陪従司々人等諸聞食宣、此月閑時「爾之弖」國風御覧「止奈毛」聞所行
今御座所御覧磯嶋奇麗海瀲清景「爾之弖」御意於多比爾御座坐、故是以御座坐「世留」名草海部二郡百姓今年田租免賜又國司國造二郡司「良爾」冠居上賜治賜、目已下及郡司正六位上「爾波」男一人
位一階賜又御座所高年八十已上人等大物賜「波久止」勅命衆聞食宣、授守従五位下藤原朝臣鷹養従五位上、介外従五位下葛井宿稱豊繼、掾従六位下小野朝臣眞野、刑部大亟正六位紀朝臣岡繼、中衛將監正六位上紀朝臣良門従五位下遣使於名草海部二郡諸寺施綿。
甲寅(十三日)自雄山道還日根行宮。
〔万葉集〕
玉津嶋 能見而伊座 平城有人之 待問者如何(タマツシマ ヨクミテイマセ アオニヨシ ナラナルヒトノマチトハゞイカニ)〔一二一五〕
玉津嶋 見之善雲 吾無 京往而 戀幕思者(タマツシマ ミテシヨケクモ ワレハナシ ミヤコニユキテ コヒマクオモヘバ)〔一二一七〕
玉津嶋 雖見不飽 何爲而 ?持將去 不見人之爲(タマツシマ ミレドモアカズ イカニシテ ツゝミモチユカムミズヒトノタメ)〔一二二二〕
玉津嶋 磯之浦未之 眞名仁文 爾保比去名 妹觸嶮(タマツシマ イソノウラミノ ヒマガニモ ニホヒテユカナイモガフレケン)〔一七九九〕
衣袖之 眞若之浦之 愛子地 間無時無 吾戀钁(コロモソデノ マカワノウラノ マナゴチノ マナクトモナシ ワレコフラクハ)〔三一六八〕
若之浦爾 袖左倍沽而 忘貝 拾跡妹者 不所忘爾(ワカノウラニ ソデサヘヌレテ ワスレガヒ ヒロヘドイモハ ワスラヘナクニ )〔三一七五〕



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