熊野関係古籍   熊野古道   

源 平 盛 衰 記

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熊野関係の「法皇熊野山那智山御参詣事」「熊野山御幸事」「康頼熊野詣附祝言事」「小松殿夢同熊野詣事」を記載しています
 「康頼熊野詣附祝言事」は硫黄島に流された成経、康頼、俊寛の三人のうちは俊寛だけが熊野三所権限にすがろうとはしなかったため、赦免状が届いてみると、俊寛の名はなく、ひとり島に残されることとなったことが書かれている。
*参考になるサイト http://www.j-texts.com/sheet/seisuik.html
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源 平 盛 衰 記                              

法皇熊野山那智山御参詣事

法皇は御出家の思出に熊野御参詣あり、三山順禮の後、瀧本に卒塔婆を立られたり、智證門人阿闍梨龍雲坊の行眞とど銘文には書かれたる。さまでなき人の門流を汲だに嬉きに、昔は一天の聖主、今は三山の行人
(ぎょうにん)、御宸筆(しんぴつ)の卒塔婆の銘、三井の流れの修験の人、さこそ嬉しく思けめ。書傳たる水莖(みずくき)の跡は、今まで通らじ、昔は平城(へいぜい)法皇の有御幸ける山、那智山日記にとゞまり、近くは花山法皇参詣、瀧本に三年千日の行を始置せ給へり。今の世まで六十人の山籠とて、都鄙(とひ)の修行者集りて、難行苦行するとかや。彼花山法皇の御行(おこなひ)の其間(ひま)に、様々の驗徳を顯させ給ける其中に、龍神あまくだりて如意寶珠一顆(か)、水精(すいしょう)の念珠一連、九穴の蚫貝一つを奉る。法皇此供養をめされて、末代行者の為にとて、寶珠をば岩屋の中に治られ、念珠をば千手堂のへやに納られて、今の世までも先達預渡す。蚫をば一の瀧壺に被(れ)たりと云。白河院御幸時、彼蚫を為(られん)見、海女を召て瀧壺に入らりたりければ、貝の大きさは傘(からかさ)ばかりとど奏(そう)し申ける。参詣上下の輩(ともがら)、萬(よろず)の願の満(みつる)事は、如意寶珠の驗(しるし)なり、飛龍の水を身にふるれば、命の長事は彼蚫の故とど申傅たる。花山法皇の御籠の時、天狗様々奉ければ、陰陽博士安部清明を召て被(られ)ければ、清明狩籠(かりこ)の岩屋と云所に、多の魔類を祭り置。那智の行者不法解怠(げたい)のある時は、此天狗共嗔(いかり)をなして恐(おそひ)しとぞ語傅たる。 

熊野山御幸事

平城法皇、花山法皇、三山五箇度。堀河院、三山一度。鳥羽法皇、三山八度。後白河法皇、本宮三十四度、新宮那智十五度。
  
康頼熊野詣附祝言事

(いざ)給へ少将殿とて、精進潔斎して、熊野詣と准(なぞら)て岩殿へこそ参ける俊寛は詞(ことば)計は云散たりけれど、法華を讀己身(こしん)を觀ずる事もなく、日吉詣もせざりけり。唯歎臥(なげきふし)たる計にて、聊(いささか)も所作はなかりけり少将と入道とは岩殿に参拝して、熊野(ゆや)權現と思なぞらえて、證誠殿と申は本地は彌陀如来、悲願至て深ければ、十悪五逆も捨給はず、垂迹權現は利生方便の靈神(れいじん)也、遠近尊卑にも惠を施し給へば、兩人御前に跪き、南無日本一、大靈験三所權現、和光の利益本誓に違ず、我等が至心の誠を照覧し給て、清盛入道の悪心を和げ、必都へ還し入給へと祈誓(きせい)しけるど哀なる。結願の日に成りけるに、康頼入道社壇の御前にて歌をうたひて法楽に備けり。
  白露は月の光にて、黄土うるほす化あり、権現舟に棹さして、向の岸によする波
と、未謡も果ざるに、三所權現となぞらへ祝ひ奉る。何も常葉の榊の葉、冷風吹来動揺する事良久
(やゝひさし)。入道是を拝しつゝ感涙を押へて一首の歌をぞ讀ける。
  神風や祈る心の清ければ思ひの雲を吹やはらはん
少将も泣々十五度の願満ぬとて
  流よる硫黄が島のもしほ草いつか熊野に廻
(めぐり)出べき
さて少将立あがりて入道を七度まで拝給ふ。性照驚、是は何事にかと申ければ、入道殿のすゝめに依て、先達に奉
(たのみ)、十五度の参詣已(すでにをわり)候ぬ、神明の御影向も嚴重に御座(おはしま)せば、再都へ歸らん事疑なし、さらば併(しかしながら)御恩なるべし、生々世々爭(しょうしょうせせいかで)か忘れ奉べきとて、聲も不惜泣れけり。性照も己と我を拝み神として、効驗を現し給へば、絞る計の袖也けり。其後康頼入道は小竹を切てくしとし、浦のはまゆふを御幣に挾み、蒐草(かりくさ)と云草を四手に垂、清き砂(いさご)を散供(さんぐ)として、名句祭文を讀上て、一時(のりと)を申けり。
再拝々々、維當歳次(これあたるさいじは)、治承二年戊戌(つちのえいぬ)、月の竝(ならび)十二月、日數三百五十四箇日、八月廿八日、神(しん)已來(このかた)、吉日良辰、掛忝(かけまくも)日本第一大靈驗熊野三所權現、竝飛瀧大薩□[土+垂](さった)、交量(こうりょう)うつの弘前(ひろまえ)ニテ、信心大施主、羽林(うりん)藤原成經、沙彌性照、致清浄之誠、抽(ぬきんでて)懇念(こんねん)之志、謹敬白(うやまってもってもうす)、夫(それ)證誠大菩薩者(は)、濟度苦海之教主(きょうしゅ)、三身圓満之覺王也、兩所權現者(は)、又或南方補堕落能化(うけ)之主、入重玄門(にゅうじゅうげんもん)之大士(だいじ)、或東方浄瑠璃醫王之尊、衆病悉除(しつじょ)之如來也、若一王子者、娑婆世界之本主(ほんしゅ)、施無畏者之大士、現(げんじて)頂上之仏面、満衆生之所願給へり。云、同法性真如之都、従和尚同塵之道以來(このかた)、神通自在而シテ、誘(いざな)難化之衆生、善巧方便、而成無邊之利u、依之自上一人、至下万民、朝浄水肩、洗煩悩之垢、夕ニハ深山、運常楽之地、峨々タル峯高シ、准(なぞら)是於信徳之、分登、嶮々タル谷深、准(なぞらヘ)是於弘誓(ぐせい)之深、凌(しのぎて)、爰(ここに)(たのま)利u(りやく)之地(ば)、誰(はこばん)歩於(お)嶮難(けんなん)之道、不權現之徳者、何(つくさん)志於遼遠(りょうえん)之境、然證誠大權現、飛瀧大薩口[土+垂](さった)、慈悲ノ御眼(まなこ)、牡鹿(さおしか)之御耳振立、知之丹精、納(じゅし)専一之懇志、現成經(なりつね)性照遠流之苦、早(つけ)舊城之故郷、當ニハ人間有為妄執(ういもうしゅう)之迷、速(しめん)新成之妙理而已(のみ)、抑(そもそも)又十二所權現者、隨類應現之願、本迹(ほんじゃく)済度之誓、為導キ有縁之衆生一、ハン無怙(むく)之群情七寶荘厳之栖、卜(しむ)(きょ)於三山十二之籬(まがき)、和(やわらげ)八萬四千之光、同形於六道三有(う)之塵、故ニハ定業(じょうごう)能轉衆病悉除(しつじょ)之誓約有(たのみ)、當ニハ来迎引接必得往生之本願無、是貴賤列(つらね)禮拝之袖、男女運歸敬之歩、漫々タルニハ、洗罪障之垢、重々(ちょうちょう)タルニハ、仰懺悔之風、調戒律乗急之心、重(かさね)柔和忍辱(にんにく)之衣、捧(ささげ)覚道之花、動神殿之床、澄(すまし)信心之水、湛(たたえ)利生之池、神明垂納受、我等成(じょうぜん)所願(か)、仰十二所權現、伏乞(ふしてこふ)三所垂跡、早利生之翅(つばさ、凌(しのぎ)左遷海中之波、速(すみやかに)和光之恵、照歸洛故郷之窓、弟子不愁歎神明知見證明セン、敬白(きょうびゃく)再拝々々。
と讀上て、互に浄衣の袖をぞ絞ける。さらぬだに尾上の風は烈きに、暮行秋の山下(おろし)風、痛身にしむ心地して、叢に鳴虫の音も、古郷人を戀るかと、最(いと)物哀(ものあわれ)也けるに、峯吹嵐に誘れて、木葉亂て落散(ちり)けり。其内に最怪き葉二(ふたつ)飛來て、一は成經の前、一は性照が前にあり。康頼入道の前に落たる葉には歸雁と云二文字を、蟲食にせり。少将前の葉には、二と云ふ文字を蟲食へり。二の木葉を取合て讀連(つづく)れば、歸雁二と有。二人取かはし/\、讀ては、打うなづき/\して、奇(あやし)や何(いか)なれば、歸雁二と有やらん、三人同流されて、誰一人漏べきやらん□[穴+倉](おぼつか)な、但信心参詣の志、權現爭(いかでか)か御納受(のうじゅ)なからんなれば、神明の御計にて、我等二人は被(れ)召返(めしかえさ)て、執行(しゅぎょう)など残し置るべきやらん、又何れもるべきぞやと、共に安(やすらぎ)心なし。係程(かかるほど)に又楢葉(なぎのは)の廣かりける、何くよりとも知ず飛來て、康頼入道の膝の上にぞ留りたる。取てみれば歌なり。
  口(ちはやぶる)神に祈のしげければなどか都に歸らざるべき 
是を見給けるにこそ、二の歸雁と有けるは、成經性照(しょうしょう)二人とは思定て嬉けれ。二人互に目を見合て、責(せめての)の事には、これを若(もし)夢にやあらんと語けるこそ哀なれ。今日を限の参詣也とて、少将も康頼も、御名残を奉惜て、去夜(さんねるよ)は是に留て、通夜(よもすがら)法施(ほっせ)を奉手向(たむけ)。暁方(あかつきがた)に康頼歌をうたひ、其終りに足柄を歌て、禮奠(れいてん)にそなへ奉る。さてちとまどろみたりける夢の中に、海上を見渡せば、沖の方より白帆係たる小船一艘浪に引れて渚による。中の紅の袴著(き)たる女房三人舟より上りて、鼓を脇に挟みつゝ、拍子を打て、足柄に歌を合歌たり。
  諸の仏の願よりも、千手の誓は頼もしや、枯たる木草
(きくさ)も忽に、花咲實(み)なるとこそ聞と、三人聲を一にして二返までこそ歌ひけれ。渚女房達、舟にのらんとて汀(みぎは)の方に下けり。少将も康頼も名残惜覺つゝ、遥に是を見送れば、女房立歸つゝ、人々の都歸も近ければ名残を慕て來れりとて、掻消(かきけす)様に水の中へぞ入にける。夢覺て後是を思へば、三所權現の御影向(ようごう)(か)、西御前と申は、千手の垂跡(すいじゃく)に御座(おわせま)せば、口(ちはやぶる)玉の簾を巻揚て、足柄の歌を感ぜさせ給けるにこそ、さらずは又廿八部衆の内に、龍神の守護して海中より來給へる歟(か)、夢も現(うつつ)も憑(たのも)しくて、二人は終に歸上にけり。俊寛此事を後悔して、獨(ひとり)(なげき)悲めども、甲斐ぞなき。さても二人の人々は、新く用べき浄衣もこり拂もなければ、都より著(き)ならしたる古き衣を濯(すすぎ)て、新しがほに翫(もてな)しつゝ、藁履(わらぐつ)はゞきもなかりければ、ひたすら跣(はだし)にてさゝれけり。人も通はぬ海の耳(はた)、鳥だに音せぬ山のそはを、泣々打列(うつつれ)御座けん、心の内こそ糸惜けれ。手にたらひ身にこたへたる態(わざ)とては、入江の鹽にかくこり、澤邊の水にすゝぐ口、立ても居ても朝夕は、南無懺悔、至心懺悔、六根罪障(ざいしょう)と、宿罪を悔、寝ても覚ても心に心を誡(いましめ)て、三歸(き)五戒(かい)を守つゝ、半日に不(ぬ)足道なれども、同所を往還(ゆきかえり)々々、日數を經(ふる)こそ哀なれ。峨々(がが)たる山をさす時は、高岩角蹈迷、鹽風寒シテ浪間の水何度(いくたび)足を濡らん、霞籠たるそばの道、柴折を注(しるし)に過られけり。浦路(うらじ)濱路に赴てさびしき處をさす時は、和歌、吹上、玉津島、千里の濱と思なし、山陰木影に懸つゝ、嶮所を過には、鹿瀬、蕪坂、重點、高原、瀧尻と志し、石巌四面に高して、青苔(せいたい)上に厚くむし、萬木枝を交(まじえ)つゝ、舊草(ふるくさ)道を閉塞ぐ。谷河渡る時もあり、高峯を傳折もあり。岩田川によそへては、煩悩の垢を洗、発心門に准(なぞらえ)ては、菩提の岸にや至るらん。近津井、湯河、音無の瀧、飛瀧權現に至まで、和光の誓を憑(たのみ)つゝ、いはのはざま苔の筵、杉の村立、常葉の松、神の惠の青榊、八千代を契る濱椿、心にかゝり目に及、さもと覺(おぼゆ)る處をば、窪津王子より、八十餘所に御座王子々々と拝つゝ、榊幣(ぬさ)挟れたる心の内こそ哀れなれ。奉幣御神楽なんどこそ、力無れば不叶と、王子々々の御前にて、馴子(なれこ)舞計(ばかり)をばつかまつらる。康頼は洛中無雙の舞也けり。魍魎鬼神(もうりょうきじん)もとらけ、善神護法もめで給なりければ、昔(むかし)今の事思ひ出で、
  さまも心も替かな、落る涙は瀧の水、妙法蓮華の池と成、弘誓の舟に竿指て、沈む我等をのせたまへ

と、舞澄して泣ければ、少将も諸共に、涙をぞ流しける。日數漸重(ようやくかさなり)て、参詣己(すで)に満ければ、殊に今日は神御名残も惜(おしく)、何もあらまほしくぞ思はれける。一心を凝(こら)し、抽(ぬきんでて)丹誠、彼岩殿の前に、常木三本折立て、三所權現の御影向(ようこう)と禮拝重尊し奉る。其御前にて性照申けるは、三十三度の参詣已に結願しぬ、今日は暇(いとま)給て黒目に下向し侍(さむろう)べければ、身の能(のう)施て、法欒に奉らん、我身の能には、今様こそ、第一と思侍れとて、神祇(じんぎ)巻に二の内、
  佛の方便也ければ、神祇の威光たのもしや、扣
(たたけ)ば必響あり、仰ば定て花ぞさく
と、三返是を歌ひつゝ、先は證誠殿に手向奉り、二度三度は結早玉に奉るとて、心を澄して歌ければ、權現も岩殿もさこそ哀におぼしけめ、神明遠に非、只志の内にあり、熊野の山は、一千五百の遠峯、硫黄島は西海はるかの浪の末、信心浄くすみければ、和光の月も移けり。歸雁二とあれば赦免一定(いちじょう)なるべし。秋此島に遷(うつさ)れて、春都へ歸べきにこそと、憑(たのも)しく覚る、中にも三人の女房の、都還の名残こそ思合て嬉けれ。陸奥國(みちのくに)に有りける者、毎年参詣の願を發(おこし)て、年久く参たりけるが、山川(さんせん)遠く隔て、日数を經國に下り著(つき)て、穴苦し、ゆゝしき大事也けりとて、休み臥たりけるに、權現夢の中に御託宣あり。
  道遠し程も遥にへだたれり、思ひおこせよ我も忘れじ
と、深
(こころざし)權現争か御納受なからんと覺えたり。彼寛平法皇の御修業、花山院の那智籠、捨身の行とは申しながら、勞(いたは)しかりし御事也。況(いわんや)我等が身として、歎(なげ)くにたらぬ物なれ共、理(ことわり)忘るゝ涙なれば、袖のしがらみ解けやらず、係るうき島の習にも、自(おのずから)便もやとて、少将は蜑(あま)の女に契を結び給て、御子一人出来給ひけり。後はいかゞ成りにけんそも不知。夫婦の中の契は、うかりし宿世(しゅくせ)と云ながら、最(いと)哀なりし事共也。二人の人々は、岩殿の御前を立ち、悦(よろこび)の道に成、切目の王子の水(なぎのは)を、稲荷の社の杉の枝に賜、重て黒目につくと思て、嶮(けわしき)山路を下りつゝ、遥(はるか)の浦路に出にけり。折節(おりふし)日陰のどかにして、海上遠く晴渡り、五體に汗流(ながれ)て、信心肝に銘(めいじ)ければ、權現金剛童子の御影向(ようこう)ある心地せり。遥に鹽(しお)せの方を見渡ば、漫々たる浪の上に、怪(あやしき)物ぞゆられける。少将見之、やゝ入道殿、一年(とせ)我等が漕來侍りし、舟路の浪間に、ゆられ來るは何やらんと問れければ、あれは澪(みお)の浮州(うきす)の浪にたゞよひ侍るにこそと申。次第に近附をめかれもせず見給へば舟也けり。端島(はじしま)の者共が、硫黄取に越るかと思程に、近く漕よせ、舟の中に云音(いふこえ)をきけば、さしも戀き都の人の聲なり。穴無慙(むざん)、何(いか)なる者の罪せられて、又此島にはなたるらん、思(なげき)は身にも限らざりけりと思ながら、疾(とく)おりよかし、都の事をも尋聞(たづねきかせ)んと思けるに、實(まこと)に近付ば、今更やつれたる有様を見えん事の恥しさに、二人は磯を立チ退(しりぞき)、木陰に忍て見給けり。舟こぎよせ急ぎおり、人々の忍方へぞ進ける。僧都は餘りにくたびれて、只夜も晝も悲の涙に沈み、神佛にも祈らず、熊野詣にも伴はず、岩のはざま苔の上に倒れ臥して居たりけるが、都の人の聲を聞起あがれり。草木の葉を結集(ゆひあつめ)て著たりければ、□(おどろ)を戴ける蓑虫に似たり。頭は白髪長く生のびて、銀の針を研(すり)立たる様也。見(みる)もうたてく恐し。二人の居たりける處へ進來れり。六波羅の使(つかい)近付寄て、是は丹左衛門尉基安と申者に侍(はんべる)、六波羅殿より赦免の御教書候、丹波少将殿に進上せんと云。人々餘(あまり)の嬉さに、只夢の心地ぞせられける。成經是に侍りとて出合(いであわ)れたり。基安立文(たてぶみ)二通取出(とりいだし)て進(まいらす)る。一通は平(へい)宰相の私の消息也。少将ばかり見。一通は太政入道の免状也。判官入道披(ひらき)之ヲ讀に云(いわく)
(よって)中宮御産御祈祷、被(るる)非常大赦之内、薩摩方(がた)硫黄島流人丹波少将成經、竝平判官康頼法師可歸洛之由、御氣色所也、仍(よりて)執達(しったつ)
  七月三日
とはありけれども、俊寛僧都といふ四の文字こそなかりけれ。執行(しゅぎょう)は御教書(みきょうしょ)とりあげて、ひろげつ巻つ、巻つ披(ひらい)つ、千度百度(ちたびももたび)しけれども、かゝねばなじかは有るべきなれば、やがて伏倒(ふしたおれ)、絶入けるこそ無慙(むざん)なれ。良(やや)起あがりては、血の涙をぞ流しける。血の涙と申は、涙くだりて聲なき血と云といへり。言(ことば)は出(いざ)さざりけれ共、落る涙は泉の如し。理(ことわり)や争(いかで)かなからざらん。三人同罪にて、同島(おなじしま)へ流されたるに、死なば一所(しょ)に死に、還らば同く歸べきに、二人は召かへされて僧都一人留るべしとは思やはよりける、誠に悲くぞ思けん、遥に久有て宣(のたまい)けるは、年比(としごろ)日比は、三人互に相伴(あいともない)、昔今(むかしいま)の物語をもして慰(なぐさみ)つるすら、猶(なお)忍かねたりき。今人々に打捨られ奉なば、一日片時いかにして堪過(たえすぐ)すべき。但(ただし)三人同罪とて、同島に遷されたる者が、二人は免されて俊寛一人留めらるゝ、誠共覺えずさらでは又別の咎(とが)もなき物をや、是は一定(いちじょう)執筆(しゅひつ)の誤と覺たり。若又平家の思召忘給へるかや、執(とり)申者の無りけるかや、餘も苦しからじ、唯各(おのおの)相具して登給へ、若(もし)御免されもなき物を具足し上たりとて御とがめあらば、又も此島へ被(よ)サレよかし、其は怨にもあらじ、今一度古郷に歸、戀き物共をも見ならば、積る妄念をも晴ぞかしと口説けり。少将も判官入道も被けるは、さこそ思給らめなれども、御教書に漏たる人を具足せんも恐あり、同罪とて同所に被(れ)流ぬれば、咎(とが)の輕重(きょうじゅう)あらじかし、中宮の御産に取紛(まぎれ)れて、執筆の誤にてもあるらん、又平家の思忘たる事にも有らん、今は我等道廣き身と成ぬ、僧都の赦免に漏て歎(なげき)悲み給し事不便(ふびん)也、被(れ)たらば、目出き、御祈祷たるべき由、内外(ないけ)に附け申さば、などか御計(はからい)なからん、其までの命をこそ神にも佛にも祈り申されめ、更に不疎略(そりゃく)なんど様々に誘慰けり。僧都は、日来の歎は思へば物の數ならず、古郷の戀しき事も、此島の悲き事も、三人語て泣つ笑つすればこそ、慰(なぐさむ)便とも成りつれ、其猶(なお)忍かねては憂音(うきね)をのみこそ泣つるに、打捨て上(のぼり)給なん跡のつれづれ、兼て思にいかゞせん、さて三年の契(ちぎり)絶はてて、獨留て歸上り給はんずるにや、穴(あな)名残惜や/\とて、二人が袂(たもと)をひかへつゝ、聲も惜ずをめきけり。理(ことわり)や旅行一匹(ひつ)の雨に、一樹の下(もと)に休み、往還(ゆきかえる)上下の人、一河の流を渡れども、過別るれば名残惜く、風月詩歌の一旦の友、管絃遊宴の片時(へんじ)の語(かたら)ひ、立去折は忍難くこそ覺ゆれ、況(ゆわん)やうき島の有様とは云ながら、さすが三年の名残なれば、今を限の別也、いかに悲く思らんと、打量りては無慙(むざん)なれども、縦(たとひ)戀路の迷人も、我身に増るものやあると云けんためしなれば、執行(しゅうぎょう)をば打捨て、少将も判官入道も急ぎけるこそ悲けれ。判官入道は本尊持經(じきょう)を形見に留む。少将は夜の衾(ふすま)を残し置、風よく侍とて水手(すいしゅ)等とく/\と進ければ、僧都に暇乞船にのり、纜(ともづな)を解て漕(こぎ)出けり。責(せめて)の事に、僧都は、漕行舟の舷(ふなばた)に取付て、一町餘出たれども、満鹽口に入ければ、さすがに命や惜かりけん、渚に歸て倒れ臥、足ずりをしてをめきけり。稚子(いとけなきこ)の母に慕て泣かなしむが如也。彼喚(おめき)叫音(こえ)の、遥々(はるばる)と波間を分て聞えければ、誠にさこそ思らめと、少将も康頼も、涙にくれて、漕行空も、見えざりけり。僧都は千尋の底に沈まばやとは思けれ共、此人々の都に歸上(のぼり)て、不便の様をも申て、などか御免も無(なか)るべきと、宥(なだめ)云ける憑(たのみ)なきことのはを憑て、それまでの命ぞ惜かりける。漕行船の癖(くせ)なれば、浪に隠れて跡形はなけれ共、

「挿絵、俊寛が島に取り残され2人を乗せた舟が出て行く絵」

(せめて)の別の悲さに、遥々沖を見送て、跡なき舟を慕けり。昔大伴の狭手彦(さでひこ)が遣唐使にさゝれて、肥前國松浦方より舟にのり、漕出たりけるに、夫の別を慕つゝ、松浦さよ姫が、領巾麾(ひれふる)の嶺に上りて、唐舟(もろこしぶね)を招つゝ、悶焦(もだえこがれ)けんも、又角やと覺て哀也。日も既(すでに)暮けれ共、僧都はあやしの伏戸へも歸ず、天に仰ぎ地に臥、首(こうべ)を扣(たたき)き胸を打、喚(おめき)叫ければ、五體より血の汗流て、身は紅にぞ成にける。只磯にひれふし、浪にうたれ露にしをれて、蟲と共に泣明しけり。昔天竺に、早利即利(そうりそくり)と云し者、継母(けいぼ)に悪(にくま)れて、海岸山(かいがんさん)に捨られつゝ、遥の島に二人居て、泣悲けん有様も、角やとぞ覺ゆる。彼は兄弟二人也、猶慰(なぐさむ)事も有けん、是は俊寛一人也、さこそは悲く思けめ。さても庵に歸りたれ共、友なき宿を守て、事問者も無れば、昨日までは三人同く歎(なげ)きしに、今日は一人留りて、いとゞ思の深なれば、角ぞ思つゞけける。
  見せばやな我を思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を 
少将は九月中旬に島を出て、心は強
(あながち)に急けれども、海路の習也ければ、波風荒くして日數(ひかず)を過、同廿日餘にぞ九國の地へは著給ふ。肥前国鹿瀬庄(かせのしょう)は、私には味木(みきの)庄とも云ひけり。件の所は舅(しゅうと)平宰相の知行也。爰に暫(しばらく)く逗留して、日來のつかれをもいたはり給へり。湯沐(ゆあび)髪すゝぎなどせられければ、冬も深く成て、年も既(すで)に暮、治承も三年に成りにけり

小松殿夢同熊野詣事

治承三年三月の比、小松内府(だいふ)夢見給けるは、伊豆国三島大明神へ詣給たりけるに、橋を渡て門の内へ入給ふに、門よりは外右の脇に、法師の頭を切かけて、金(こがね)の鎖を以て大なる木を掘立て、三つの鼻綱(はなづな)につなぎ附たり。大臣思けるは、都にて聞しには、二所三島と申て、さしも物忌(いみ)し給て、死人に近附たる者をだにも、日數を隔(へだ)て参るとこそ聞しに、不思議也と覚て、御寶殿の御前に参て見給へば、人多ク居竝(いならび)たり。其中に宿老(しゅくろう)と覚しき人に問給フやうは、門前の係りたるはいかなる者の首にて侍(はんべる)ぞ、又此明神は死人をば忌給はずやと宣(のたま)へば、僧答て云、あれは當時の将軍、平家太政入道と云者の頸(くび)也、當国の流人源兵衛佐頼盛(ひょうえのすけためとも)、此社(やしろ)に参て千夜通夜して祈申旨(むね)ありき、其御納受に依て、備前国吉備津宮に仰(おおせ)て入道を討(とう)してかけたる首也と見て夢さめ給ぬ。恐し浅猿(あさまし)と思召、胸騒心迷して、身體(しんたい)に汗流て、此一門の滅びんずるにやと、心細く思給ける處に、妹尾太郎兼康、折節(おりふし)六波羅に臥たりけるが、夜半計に小松殿に参て案内を申入、大臣奇(あやし)と覚しけり。夜中の参上不審也、若我見つる夢などを見て、驚(おどろき)語らんとて来たるにやと、御前に被(れ)何事ぞと尋給へば、兼康畏(かしこまっ)て夢物語申、大臣の見給へる夢に少しも不違、さればこそと涙ぐみ給て、よし/\妄想にこそ、加様の事披露に不レド誡宣(いましめたまひ)けり。懸ければ一門の後榮憑(たのみ)なし、今生の諸事思ひ捨て、偏(ひとえ)に後生の事を祈申さんとぞ思立給ける。同年五月に、小松大臣宿願也とて、公達(きんだち)引具(いんぐ)し奉り熊野参詣あり。精進日數を重つゝ、本宮に著給ひて、證誠殿の御前に再拝し啓白(けいびゃく)せられけるは、帰命頂禮大慈大悲證誠権現、白衣(びゃくえの)弟子平重盛驚奉、申入心中の旨趣(しいしゅ)を聞(きこし)召入しめ給へ、父相國(しょうこく)禅門の體(てい)、悪逆無道にして動(ややも)すれば君を悩し奉る、重盛其長子として頻に諌(いさめ)を致と云共、身不肖(ふしょう)にして不敢服膺(あえてふくよう)、其振舞を見に一期の栄花猶危フシ、枝葉(しえふ)連續して親(しん)を顕(あらわ)し名を揚ん事難(かた)し、此時に當て重盛苟(いやしく)も思へり、憖(なまじひに)に諂(へつらふ)て世に浮沈(ふちん)せん事、敢(あへて)良臣孝子の法に非ず、不(じ)(しか)名を遁(のが)れ身を退(しりぞい)て、今生の名望を抛(なげうっ)て来世の菩提を求んにはと、但(ただし)凡夫の薄地(はくち)、是非に迷が故に、猶未志を不(ほしいままにせ)、願は権現金剛童子、子孫の繁栄絶ずして、仕て朝庭に交るべくば、入道の悪心を和(やわらげ)て天下安全を得せしめ給へ、若(もし)榮耀(えいよう)一期を限、後毘(こうこん)恥に及べくば、重盛が運命を縮て来世の苦輪(くりん)を助給へ、両箇(りょうこ)の愚願(ぐがん)(ひとえ)に冥助(みょうじょ)を仰ぐと、肝胆(かんたん)を碎て祈念再拝し給ふにも、西行法師が道心を發(おこ)しつゝ、諸国修行に出るとて、賀茂明神に参つゝ、通夜して後世(ごせ)の事を申けるにも、流石名残惜くて、
  かしこまる四手
(しで)に涙ぞ係りける又いつかもと思ふ身なれば
と讀て涙ぐみたりけん事、急度
(きっと)思出給ひつゝ、袖をぞ濕(うるほ)し給ける。彼は諸国流浪の上人也、命あらば廻(めぐ)り會(あう)世も有ぬべし。是は最後の暇(いとま)を申給へば、今を限の参詣也、さこそ哀れに覺しけめ。筑後守貞能御供に候ひけるが、奉見けるこそ奇(あやし)けれ。大臣の御後より、燈爐の火の如くに赤光(あかきひかり)たる物の俄に立耀(たちかがやき)ては、ばつと消え、ばと燃上りなどしけり。悪(あし)き事やらん吉(よき)事やらんと胸打騒思けれども、人にも語らず、左右(さう)なく大臣にも不申、御悦(よろこび)の道になり給。音無の王子に詣給たりけるに、清淨寂寞(じゃくまく)の御身の上に、盤石(ばんじゃく)空より崩係るとぞ大臣うつゝに見給ける。岩田川に著給て、夏の事也ければ河の端に涼み給ふ。権亮(ごんのすけ)少将己下(いげ)、公達二三人河の水に浴戯れて上給へり。薄あほの帷(かたびら)を下に著給へるが、淨衣に透通て諒闇(りょうあん)の色の如くに見えければ、貞能(さだよし)是を見咎(みとがめ)て、公達の召れたる御帷淨衣に移て、などや忌敷覚候、可(べし)(らる)召替と申ける。次を以て證誠殿の御前にて念珠の時、御後に照光し事有の儘(まま)に申ければ、大臣打涙ぐみ給て、重盛権現に申入旨有き、御納受あるにこそ其淨衣不脱改とて、是より又悦(よろこび)の奉幣あり。人々奇(あやし)とは思ひけれども、其御心をば知ず、下向の後幾程なくて、後に悪き瘡(かさ)の出給たれども、つや/\療治(りょうじ)も祈誓(きせい)もなかりけり


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